仏教の教義上、仏法上、風俗へ行ってもいいのでしょうか?
本記事では依存症の本質に迫ります。
Index
ギャンブル-セックス-アルコール-タバコ-依存症は繋がっている
快楽物質ドーパミン
ドーパミンはあらゆる依存症に繋がっています。細かいメカニズムは割愛しますが、最大快楽と言われるヘロインやコカインも薬理は違えど、最終的にはドーパミンによって快楽を得ています。
しかし、ドーパミンは悪者でもなく、人間が人間的に習慣を形成し、努力し続ける為にも貢献しており、ドーパミンの助けで個体の生をまっとうし、種としての生の存続を行っているという側面もあります。
つまり、ドーパミンは依存症という地獄へも導き、活力・生命力という生の根源にも通ずる、もろ刃の剣なのです。
所詮は、ドーパミンに支配されるか、ドーパミンを支配(コントロール)するか、人の一生はどちらかでしかなく、どちら側で生きるかによって180度結果が変わってしまうという事実を深く信じるべき、そう筆者は感じています。
依存症の定義
定義を決定する立場などによっても内容は変わってきますが、例えば厚生労働省の場合は、
「やめたくても、やめられない」状態が依存症の定義です。
また、
こちらのNPOでは自分の生活や人生にダメージを与えているのに、意志の力ではそれがやめられない状態が依存症の定義とされています。
依存症の正体
依存症の正体は、ドーパミンの快楽の反復による脳の神経回路の変性と言われています。
変性していくことによって、その物質、その行為がどんどんやめられなくなっていきます。
そして筆者が定義する依存症とは、まさにこの渇望状態そのものを指します。必要な欲求(快楽・ドーパミン)を必要なときに発現し、不要な場面では不要な欲求(快楽・ドーパミン)を発現させない、このようなコントロールができない状態を依存症と定義します。
つまり、「やめたくても、やめられない」状態でもなければ、自分の生活や人生にダメージを与えている状態でもない、そう考えています。
これだけでは説明が不十分ですね。「やめたくても」の部分には当人の価値観が含まれています。不倫が正しいと考える人間は、そもそもやめたいとも思っていない(主観的認知が歪んでいる)ため、当てはまらなくなります。
また、「自分の生活や人生にダメージを与えている」これはつまり「損害」があるかどうかということですが、社会的損失、経済的損失、時間的損失などがなければ、或いは多少の損失程度であれば、依存症ではないというものでもない、そう考えています。依存症に現状維持というものはありません。徐々に脳は変性していくため、減少や断ち切りを実行していかないと、依存症はエスカレートせざるを得ないのです。
ドーパミンによる支配という本質から向き合っていかないと、今は「損害」がない、或いは多少ある程度、であったとしてもいづれ引き返せないところまで行きかねません。
依存症【仏法からの視点】
仏法から見たとき、この依存症とは餓鬼界の境涯を指します。
餓鬼界とは、欲望が満たされずに苦しむ境涯です。この境涯には当然「損害」という概念はありません。ただ、際限のない欲望にふりまわされ、心が自由にならず、苦しみを生じる境涯を指すのです。
このように、仏法の視点から見ると、依存症は餓鬼界そのものであり、損害云々の勘定はなく、ただただ心が自由にならない様相を指しているのです。
餓鬼界という視点から見て全てのドーパミン依存行為は繋がっている
タバコはやめれるが、酒はやめれない『せめて酒ぐらいなら解放してもいいだろう』というのは本質的には誤りということです。
餓鬼界という境涯そのものから抜け出せていないし、ドーパミン支配という根本的な回路からも抜け出せていません。
全ての依存症を断ち切り、必要なものだけを自在にコントロールできることが、境涯の基底部の底上げであり、真に心の自由を手に入れ解放することに繋がります。
全ての感覚器官が清浄になっていく六根清浄の功徳という観点からも、少しづつでも依存症を解消していく深い決意・少欲知足を祈らないなら、おおよそ信心とは言い難い真逆のものになってしまいます。
タバコぐらいいいだろう、風俗ぐらいいいだろう、そうやって限定解放している内は、一生ドーパミン支配からは逃れられず、心の訓練にもならず、境涯革命も人間革命も宿命転換も、遠のいていくばかりなのではないでしょうか?
風俗へ行ってもいいの?
さて、それでは酒を飲んではいけないのか?タバコを吸ってはいけないのか?ギャンブルや風俗に行ってはいけないのか?
これも答えはシンプルです。
必要な欲求(快楽・ドーパミン)を必要なときに発現し、不要な場面では不要な欲求(快楽・ドーパミン)を発現させない、このようなコントロールができればOKなのです。
やめられない渇望状態でない(しらふ・人界の心が保てる)なら、別に行ってもOKということです。
依存症にはスイッチがあります。依存症の人ならわかるでしょう。渇望状態のときの自分と、しらふのときの自分は、まるで別人のような(目つきが変わってしまうような)感覚です。
この渇望に支配されているなら当然行くべきではないですし、行って渇望状態になってしまう可能性があるなら、縁を作らないように努めるべきでしょう。
戦時中の慰安婦問題が取り沙汰されますが、慰安所に行って、慰安婦と対面しても、その場で家族へ手紙を書いたり、読書をして過ごす日本兵も少数ながらいたそうです。
風俗でそもそもしらふが保てて、何もせず過ごせるなら、ただのお金の無駄です。つまり正常なら行かないということであり、行ってしまう人というのは性依存症である可能性が極めて高いと言わざるを得ないのではないでしょうか?
正解は唱題をしていく中で個々人が解っていくもの
とはいえ、
ドーパミンの脳神経回路の変性は恐ろしいもので、依存が極まっていくと、脳がそれを生きる目的に完全にすり替えて認知するようになってしまいます。
生きる目的への完全なるすり替え、つまりは『生きがい』となってしまうということです。
酒やギャンブル、痴漢や不倫が『生きがい』と認知されてしまった脳を、元通りに戻すことは現代医学ではおおよそ不可能とされています。
長い時間をかけ、同じ行動を繰り返し、神経回路を変性してきたので、仮に元に戻せるにしても、同様の時間と同じ回数の逆の行動訓練の繰り返しが必要なのではないかと言われています。
依存症とはそれほどに恐ろしいものなのです。
Xジャパンが生きがいとなっていたファンの一部は自殺してしまいました。
安易に依存症を断ち切ってしまうと、最悪、自殺してしまいます。
唱題をあげきり、本当に断ち切りが無理ならば、現状維持に努めて生きる方が賢い、結果的にそのような現実もあります。
一概に正解はありません。現実はとても曖昧ではあります、しかし
やめることはできなくても、依存症と餓鬼界を真正面から認知し深く決意を固めてご本尊の前へ、境涯革命の闘いを挑んでもらいたい、そう願っていますし、大聖人様も先生も、きっとそれを望んでいることでしょう。