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【学会活動/楽しくない/したくない】学会活動やりたくない心との闘い・何のために戦うのか?

学会活動はしたくないですよね?かくいう私はその程度の境涯です。

2019年は選挙の年です。遊説隊やら全国区でのF取りやら、なにもかもやりたくない!!

願わくば家で唱題だけしていたい!!……本音です。どうもすみません。

 

しかし、なぜこうなってしまうのか?

私は独身で両親と同居しています。守る側でなく、30を超えて尚、守られる側です。パラサイト。

 

仮にパラサイトの身分であったとしても、境涯ひとつで、活動の姿勢は変わってくるのかなと、最近は感じはじめました。

 

境涯が小乗教(自分さえ悟れば良い)か、菩薩界か、その差

母の闘い

母は大変な活動家です。統合失調症という大病をかかえ、それだけでなく多くの体の欠陥、不調を抱えながらも、毎日何時間かわからないほどの唱題をしています。

体力がなく、外を出歩けない、30分以上の外出が困難。つまり外部の友人なども希薄な人間関係です。

なのにも関わらず、電話で折伏しゃくぶくやらFどりやらを慣行します。

希薄な関係性からの外部への働きかけ。KYと言えばKY。しかしその勇気には頭があがりません。

 

父の闘い

父はと言えば、激情家で愚痴文句も多く、あーだこーだしょっちゅう言っていますが、それでも活動からは一切離れません

本幹、送迎、座談会、地区協。地区協議会に関しては夜も遅く、翌日の朝の仕事は早い、なのに眠りを削って参加します。還暦の老体で。

思考が単細胞な父(面白いけど)。しかしその一歩も引かない行動力には頭があがりません。

 

なぜ活動を辞めないのか?

どんな“心”で信心をしているのか?

義務感?責任感?報恩感謝の想い?師弟の心?強拍観念?

こういったことを掘り下げて原動力を知っていくにあたって、はじめて境涯が見えてきました。

 

母は、活動が楽しいと言っています。座談会用の第三者へ向けてのコメントではありません。本当に活動が楽しいように見えます。

何が楽しいかと問えば、人の為に祈ることが楽しいのだそうです。

F取りも、単なる選挙活動ではなく、相手が世の為人の為の公明党に入れて、福運を積んで、幸福になれるように、と祈るそうです。

選挙折伏も共に『相手の幸福』を祈ることに変わりはないとのこと。

なので、F取りの前段階として祈ることが楽しい、という結論。

自分ひとりの世界で生きていたら出てこない発想です。

 

父は、福運を積んで追善回向ついぜんえこうする為と言います。これはさすがに座談会用のコメントなのでは?と疑いましたが、しかしきっとそうなのでしょう。

現実の振る舞いを見て、そう感じます。

父の母(私にとってのおばあちゃん)、父の兄(私にとっての叔父)、この二人は既に亡くなっています。

父は大変愛情を持って育てられたおんず(末っ子)です。親、親戚、兄弟、街灯もないど田舎の玄関の空いているコミュニティの中でみんな家族のようにして育てられました。

本当に『おばあちゃん』や『おじ』を愛しているのでしょう。

多少の教学も理解しているので、生きている間しか宿命転換できないことも、死後は生まれ変わるまで宇宙をその境涯のままで彷徨さまよことも理解しています。

だからこそ、彼らの苦しみを転換できるのは自分の祈り福運だけ(生前、おばあちゃんもおじも信心をしていません)

その思いで学会活動をしている、という結論。

これもまた、自分ひとりの世界で生きていては、出てこない発想です。

 

父は禅宗ぜんしゅうの家に生まれ、20代で学会に入りました。その当時の部長さんが、ことあるごとに言っていたのが

『福運がつくから会合に行こう』です。

父は、この部長さんに、大百の1ページ読むだけでも功徳がある、人間革命の1行読むだけでも功徳がある、御書の一節読むだけでも功徳がある、そう言われ続けて育てられました。

18から50過ぎまで運送業界一本で生きてきた父、週6日の肉体労働のその後に夜遅くまで会合に参加していたのも

『福運がつくから』『功徳があるから』その理由一点を信じていたからです。

些細なひとつひとつに単純明快な理由で引っ張り続けてきてくれたその部長さんの人格も、とてもいい人柄だったそうです。

 

私は、いづれも頭があがらないのです。

そもそも信仰の理由が自分以外の為なのです。完全に菩薩界の衆生。

そりゃあ活動を離脱するわけありません。

わたしはパラサイトですし、未婚で勿論こどももいません。心臓の病を持っていますが、最悪明日死んでしまっても特に抵抗感がありません。

ただ、さすがにそれは生を受けておきながら、無責任だろうという感覚だけで、むしろ生きることに責任を持とうと気を持ち直して今、生きています。

 

守るものがないから活動ができないのか?違うのではないか?

守ろうと思えば、父母を、兄弟を、組織を、守る対象にできるはず。結局自分自身が自分の殻だけに閉じこもって生きている境涯だから、戦えないのではないか?

父母のように、菩薩界の衆生になれれば、人の幸福を祈ることに楽しみを覚え、両親や兄弟や組織に福運を回す為に、学会活動できるのではないか?

 

ようやく自分の両親の偉大さがわかったのです。

 

10代の頃に自分が記した日記

『将来にわたって出てくるかもしれない妻や子供の病や事故、これら宿業を転重軽受てんじゅうきょうじゅする為に莫大な福運貯金をしよう、その時後悔しない為に』

とつづってあるのを思いだします。

あのときの自分は大菩薩だったのかもしれません。

今、その使命を少しづつ、思い出しつつ、あるのかもしれません。

 

信心を、先生を、ご本尊を、信じるならば

『だれかの為に、福運を積む戦い』に挑戦していくこと、そして『だれかの為に、祈ることを楽しめる境涯』にも、挑戦していくことで、戦いたくない殻に籠った自分を、打ち破れるのかも、しれません。

 

責任感を持つならば、活動は楽しくさせるもの

池田先生が若かりし頃、組織が面白くない、活動が楽しくない、と戸田先生に話したときの戸田先生の返答で、

『きみが楽しいと思える創価学会を作ればいいじゃないか』と戸田先生は返します。

型や枠組みにとらわれず、その時代、その場所、その特性にあった、楽しい創価学会を作ればいい

 

本質的には、責任感を持ち、作る側なのか、無責任に、ただ参加するだけの側なのか、

これも結局は境涯による差であり、使命感ある境涯の高い人材がいる組織は面白いし、いない組織はつまらない、それだけなのではないでしょうか?

ネットであふれる『楽しくない』『面白くない』『つまらない』『意味がない』こう言った言葉は、裏を返せば、無責任かつ使命感のない人材ばかりが組織を構成しているから、というのが解答となるわけです。

 

組織が楽しくないならば、自分含めた周囲の人間が境涯を高めて幸福になっていけるように真剣に祈っていけば、時間の経過とともに、人が集まり、結果が出て、わいわい楽しい組織が出来上がっていくことでしょう。

これは学会に限らず、社会のコミュニティ全てに共通する真理です。境涯の高い人間がいる組織は安定するし、面白い。

 

使命感、責任感、境涯……先生ほどの人間が現場にいれば、その組織が大きくうねり躍動と充実にみなぎるのも、納得ですね。

だからこそ、先生は、次の山本伸一を、真の弟子が現れるのを『ひとり立て!』と祈っているに違いないことでしょう。