方便品の全文解説をお調べですか?
本記事では方便品全文解説・文底の読み方、方便品の意味を解説していきます。
意味(内容)が解らず勤行をしている方は必見です。
方便品とは?方便品の意味と読み方〔方便品全文解説〕
方便品とは?方便品の意味は?
釈尊(ブッダ)が人生の晩年に説いた法華経(=妙法蓮華経)二十八品の第二(章)にあたる経文。
私たち学会員が毎日拝読しているのは、この方便品の最初にしるされた文章です。
方便品自体がなんのか?方便品のタイトルの由来など、ご理解頂けたでしょうか?
続いて方便品の文章を読んでそのまま理解する為の背景をご説明します。
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妙法蓮華経方便品第二、始まりにおける背景【文上の意味を理解する為の背景】
まず、方便品第二は「無問自説」からいきなり説き始まります。
無問自説とは、誰も質問しないのに、仏みずから説き始めることをいいます。
経典の大多数は「四衆に囲繞せられ」と始まるように、説法時は四種類の衆生(発起衆・影響衆・当機衆・結縁衆)が集っています。
発起衆は、仏に説法を要請、疑問、問答の発議をして、化導を促す衆生を指します。
当機衆は仏の説法を即時に理解する秀才。結縁衆はその時は理解できず、後に悟る衆生。影響衆は常に仏に従い、仏の言うことを証明していく実行部隊です。
仏の説法の大多数は発起衆からの質問に答える形式をとることから考えて、方便品第二はレアなケースであり、とても重要な内容がこれから説法されることを予感させるのです。
釈尊は妙法蓮華経序品第一で無量義処三昧と呼ばれる禅定の瞑想に入っていましたが、時が熟し瞑想から立ちあがり、突如、智慧第一と呼ばれた10大弟子の舎利弗に向かい、法門を説き始めます。
説きはじめ冒頭は諸仏の智慧を讃嘆するとともに、声聞・縁覚はまったくもって理解におよばないと、二乗弾呵から入っていきます。
声聞・縁覚を合わせて二乗といいます。そしてその精神を二乗根性といいますが、この二乗たちは、仏の「阿含経」を聞いて世の中を “悟った” と勘違いしてしまったり、あるいは仏の指導によらず、世間や自然界の出来事から本質の一分を感じて “悟った” と勘違いしています。
他者の苦しみはさておき、自分たちだけが “悟った” “悟ればいい” という考えをもっており、これを二乗根性と呼びます。
また、二乗はこの法華経に時間軸として近づくほどに「二乗永不成仏」と言われ、徹底的に仏に嫌われます。
方便品の目的のひとつは開三顕一(三乗の境涯を開き、仏界を顕す)にあります。そのため、二乗の境涯を徹底的に弾呵する背景があるのです。
それでは、これらの背景を頭の片隅におきつつ、早速経文本文を読んでいきましょう。
爾時世尊
経文本文:爾時世尊。
書き下し文:そのときに世尊
解説:爾の時の「時」とは、通常の時間と同じ意味ではありません。
時応機法の四義のひとつを指します。衆生の機根が仏の出現を渇望し、これに応じて仏が出現して説法する、その出会いの瞬間を『爾の時』というのです。
つまり声聞・縁覚の境涯が機(機根)を熟したことに応じていよいよ真実の一仏乗の法を説法しようという『時』を指すのです。
世尊とは梵語の訳で、釈尊のことを指します。
通解:【二乗の境涯が機を熟し、機根が調い更なる説法を渇望したそのとき、釈尊は】
従三昧 安詳而起
経文本文:従三昧 安詳而起
書き下し文:三昧従り 安詳として起ちて
解説:三昧は梵語サマーディの音写で、サマーディの意訳は『定』『正心行処』つまりこれは、心を定めて諸法実相を思索する行です。
この三昧は、序品第一で入っていた瞑想、無量義処三昧を指します。
通解:【無量義処三昧より、ゆったり厳かに起たれて】
告舎利弗
経文本文:告舎利弗
書き下し文:舎利弗に告げたまわく
解説:対告衆の舎利弗は釈尊の十大弟子の第一人者で智慧第一と謳われる天才です。尊敬の的でもあった舎利弗が、無問自説からの突然の弾呵にあいます。四十余年間の爾前経とそこに基づく二乗の境涯は一仏乗に導く方便だった為、それらが方便であったことを知らせる為の手段として、最も賢い舎利弗を相手に二乗弾呵を示していくのです。
通解:【釈尊の弟子で智慧第一と謳われて世間に尊敬されていた舎利弗に対して説きはじめます】
諸仏智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入
経文本文:諸仏智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入
書き下し文:諸仏の智慧は甚深無量なり。 其の智慧の門は難解難入なり。
解説:天台大師の説明では、諸仏の智慧とは、仏の実智(仏界の智慧)を指すと説いています。
さらに、甚深とは縦に時間の深さを、無量とは横に空間の広大さを意味しています。仏の実智とは、時間、空間をあまねく網羅しきった智慧、という意味なのです。
そしてこの仏の実智が具体的にどんなものをいうのか、天台大師はさらに明快に述べています。
それは『一心の三智』であり、一切智、道種智、一切種智の不思議三智を指しています。
一切智とは万物全ては無常を免れることはできないという平等性の二乗の智慧を指します。
道種智とは万物 “個” 各々には、たしかに差別相があるという不平等性をみる菩薩の智慧を指します。
一切種智とは一切智、道種智どちらかに固執せず双方共に実相であるとの立場で中道を理解する仏の智慧を指します。
其の智慧の門、の『智慧』は上記不思議三智を指し、『門』は仏の権智(九界の智慧)を指します。
権智があまりにも素晴らしく、巧みに説かれているから、いままでの権智に固執し、権智が実智への方便であることを理解しがたく、入りがたいと言っているのです。
通解:【諸仏の三智は、時間・空間を網羅し、深く、際限がない。権智が巧みであった故、実智は解しがたく入りがたいのである。】
一切声聞 辟支仏 所不能知
経文本文:一切声聞 辟支仏 所不能知
書き下し文:一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり。
解説:権智(九界の智慧)に特に固執しがちなのが、声聞、縁覚(=辟支仏)の二乗です。
四諦の法輪、十二因縁、爾前経のこれら九界の智慧も、実智へ導く方便であったことが受け入れられず、自身の悟りに執着して離れるのが難しいのが二乗の典型的な特徴です。
この “こだわり” を捨てさせる為に、仏はあえて二乗を指して弾呵しているのです。
通解:【この仏界の智慧は、いっさいの声聞、辟支仏の智慧をもってしては、とうてい測り知ることができないのである。】
所以者何 仏曾親近 百千万億 無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞
経文本文:所以者何 仏曾親近 百千万億 無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞
書き下し文:所以は何ん。仏曾て、百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞こえたまえり。
解説:さらに声聞、辟支仏には理解できない理由を述べていきます。
『所以は何ん』は、『その理由は何か?』という意味です。諸仏の智慧は並大抵の修行で獲得できるものではなく、大変な修行と鍛錬によって得られるものであると、讃嘆し、その大変な修行と鍛錬が何かを説明します。
それは、百千万億、無数の諸仏に付き従い無量の仏道修行(道法)を勇猛果敢に精進して、その名声が広く世間に広まっていくほど真剣に行ったものだと、説明しているのです。
通解:【なぜかと言えば、仏はかつて無数の諸仏に従い無量の道法を勇猛精進した。その名声は広く世間に広がるほど真剣な修行で、】
成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解
経文本文:成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解
書き下し文:甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解し難し。
解説:甚だ深く未だ曾て有ったことのない法、これは実智を指します。この実智を成就して、衆生の機根に随って説法するのですが、前段からの無数の仏に尽くして無数の道法を名声とどろくまでに勇敢に実践しきった未曾有の実智、これが想像を絶する鍛錬だったからこそ、その仏の心は舎利弗などには到底理解できないのだ、と、二乗では判らない理由を述べています。
通解:【結果的に甚だ深く未だ曾てない実智を得て、機根に応じて説法した。それほどの仏の心は、解りづらい。故に到底二乗には解し難いのである。】
文底からの読み直し
ここまでの方便品の文上の意味は解りましたでしょうか?
ここからは大聖人と末法の衆生の文底の立場での読み方を解説します。
まず文底の読み方には二つの意味があります。それは、所破と借文です。
所破とは文上の意味を破折しながら読むことをいいます。文上の意味はいうまでもなく釈尊の説法です。釈尊の説法は現代の末法(大聖人と南無妙法蓮華経とご本尊が出現して以来)では役に立たないことから、その文上の意味を破折する意味をもって読むことをいうのです。
借文とは方便品の文そのものを借りて、対応する部分部分を大聖人と末法の衆生に置き換えて読むことをいいます。
大聖人の境涯と南無妙法蓮華経のご本尊の功徳をあらわす意味をもって読んでいきます。
それではしっかりと文上を破折しつつ、文底の意味を確認していきましょう。
爾時世尊 従三昧 安詳而起
文底の時応機法の『その時』とは、末法の衆生の機根が、末法の救いを求める心に応じて、その苦悩を救わんと大聖人が出現し、南無妙法蓮華経を説法する『時』を指します。
『世尊』は大聖人を指すのはいうまでもありません(借文の立場)が、文上の『世尊』は法華迹門の仏で、始成正覚の釈尊を指します。
始成正覚の釈尊は現世に縛られており、法勝人劣の状態となります。
法が三世に渡っているのに、人が現世に縛られるている矛盾の状態です。この状態で智慧は甚深無量であると言っても、説得力に値しないことから、法華迹門の始成正覚の仏を破折して読んで、所破の立場で読経します。
『三昧』は大聖人が、宇宙の神羅万象の実相を思索する様を指します。
全宇宙の実相は南無妙法蓮華経の生命の思想、理法に帰納されており、時間軸で無始無終、空間的に無限、である旨の思索のことです。
安詳而起はそのまま借文します。
告舎利弗 諸仏智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入
文底においての舎利弗は
舎利弗とは梵語此には身子と云う身子とは十界の色心なり身とは十界の色法子とは十界の心法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く舎利弗なり
御義口伝巻上 722P
日蓮大聖人御書全集全文検索,SOKAnet,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=722,(引用 2019-4-4)
舎利弗を十界の色心(十界の衆生)と説いていることから、文底では舎利弗を末法の衆生といっているのです。
文底の諸仏の智慧とは、勿論、南無妙法蓮華経を指します。
文上では天台が不思議三智を仏の実智であると説明しましたが、これは、あらゆる智慧の原点となる究極的な智慧、という性質上、南無妙法蓮華経と言葉と違えた同義なるもの、と解釈します。
つまり不思議三智≒南無妙法蓮華経という関係です。
南無妙法蓮華経は善悪含めたあらゆる視点からのバランスと現実を舵取る智慧です。したがって平等性も不平等性もすなわち不思議三智もすべて包含しています。
この究極の諸仏の智慧が時間・空間を普遍的に網羅し、この智慧を得ることで、現世の縛りから解放された人間が現れる為に、法勝人劣の状態でもなくなり、法≒人の関係性が成り立ち始める故に、究極の甚深無量であると讃嘆して読んでいきます。
文底においての其の智慧の門、の『智慧』は南無妙法蓮華経を指します。
では、『門』とはなんでしょう?
南無妙法蓮華経の究極の智慧と生命力を譲り受ける為の『門』、それは『信』の一字です。
智慧の次元があまりにも違いすぎて末法の衆生には全てを理解しきるのは困難です。また現代は釈尊の経、天台の論、大聖人の御書を全て読み切り、思索を究めることはおおよそ不可能でしょう。
考えてもみてください。江戸時代の農民は日の出と共に起き、日の入りと共に寝る、平均睡眠時間がとても長い時代です。
惰眠は厳禁と言われるくらい、『寝ることができる』時代です。
現代社会は競争の中の競争真っただ中です。生きていく為には人よりも働き、評価されなければいけません。時間軸でも24時間、誰かが働いている社会です。
睡眠不足が蔓延している為、『しっかり睡眠を確保しなさい』と言われる時代です。
このような時間がなく、情報過多な時代においては、思索と頭で南無妙法蓮華経を理解することはおおよそ不可能なのです。
したがってそんな末法と未来を見越していた大聖人は『以信代慧』によって南無妙法蓮華経の全智を譲り受けられると、智慧を発揮できる方法論を示しました。
南無妙法蓮華経に縁することで、あらゆる経典の智慧に縁できる、あらゆる思想と因果、その中道に縁できる、現実と向き合っていく中であらゆる打開の智慧と生命力に縁していくことができる。
これら全ての起点となるのは、『信』なのです。
そしてこの信の一字を我が物とすることが最も、難解難入であると言っています。
つまり、文底においての其智慧門難解難入とは、南無妙法蓮華経の智慧と生命力を譲り受ける為の門は南無妙法蓮華経を信じることであり、この信じることそのものが、解しがたく入りがたい、と借文して読経します。
一切声聞 辟支仏 所不能知
釈尊の時代の声聞、辟支仏の二乗は、末法の現代においては、教師、研究者、評論家、官僚、マスコミ、芸術家など、いわゆるインテリを指します。
これらインテリ層は自身の得た学問、知識、また縁覚界としての世の中に対する直観から得た悟り、に絶対的自信を持っています。
文上においての意味で先ほどは実智へ導く為の権智であったのに、権智を真実と執着している旨を説明しましたが、末法においてもつまりはこの構図は同じなのです。
インテリ層の悟りは、南無妙法蓮華経(の悟り)へ導く為のものです。ところがその個人の悟りを真実と執着して離れるのが極めて困難なのが二乗なのです。
この “こだわり” を捨てさせる為、自己の浅はかな見識や智慧を捨てさせる為に、一切声聞 辟支仏 所不能知を借文して読むのです。
信じる為に読むのです。知識階層ほど信じることが難しい事実を理解した上で、信じる為に。
そもそも最上位の智慧のある人間は、知識の累積が空しい真実を知っています。東日本大震災の津波と原発、人間の力で自然を懐柔しようという発想の傲慢さが、人災を生みます。
自然に対する畏敬の念があれば、知識と科学で懐柔しようとはならないはずです。そこにかける時間と労力、膨大な科学知識の累積、そこまでして科学を費やしても、“想定外” の一言で失っていく空しさ。
宇宙の科学を全て知ったところで、おおよそ人間一個の幸福とは直結しない真実を知るべきです。
一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり
草木成仏口決 1,339P
日蓮大聖人御書全集全文検索,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=1339,(引用 2019-4-21)
ご本尊の大功徳と大境涯をインテリ階層は知りません。
究極の二乗(インテリ層)とは、南無妙法蓮華経を信じ、菩薩界仏界の大境涯を開き、自他共の幸福の為に存分に知識を発揮していく人生を実践できる人です。
これらを自身の生命に確認させる為に借文して読経します。
所以者何 仏曾親近 百千万億 無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞 成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解
長いですが、ここは長いままの方が理解しやすいので、この区切りで説明させて頂きます。
まず、文底のおいての未曾有の法とはなんでしょうか?
勿論、南無妙法蓮華経です。
この部分、文底においては逆転の発想で考えます。
どういうことか?
『百千万億の無数の諸仏に付き従い無量の道法を勇猛精進して得た未曾有の法』、これが南無妙法蓮華経ならば、つまり、南無妙法蓮華経は、『百千万億の無数の諸仏を生み出し、無数の諸仏を従わせ、親近させ、無量の道法さえ根本の智慧から応用して生み出した』ということになります。
無数の仏を生み出した思想の根源は南無妙法蓮華経ということなのです。
このロジックで当てはめて文底を読んでいくならば、
二乗には到底理解できない理由(所以者何)は、南無妙法蓮華経(未曾有法)が、無数の仏、無量の道法を生み出し(仏曾親近~成就甚深)てきた根源であるということが信じ難いからであり、根源である南無妙法蓮華経を基に衆生の機根に応じて権智を説いてきた(随宜所説)その心は、極めて理解し難い(意趣難解)のである。
と、いう意味になります。
これは、実はとてつもないことを言っています。
南無妙法蓮華経は諸仏を生み出した根源。
これは、南無妙法蓮華経のご本尊を受持した私たちの側から見れば、日々の勤行による唱題行で、南無妙法蓮華経を唱えることで、
百千万億の無数の諸仏に親近し、無量の道法を行じていることになるから、です。
歴劫修行
をご存知でしょうか?
歴劫修行は、成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること、を言います。
一生を布施行で修行し、つぎの一生でまた布施行、さらに次の一生では持戒の修行…etc.
何度も生まれ変わりいくつもの劫をかけて修行します。
まさに歴劫修行とは、南無妙法蓮華経の智慧を手に入れる為の修行なのです。
先の『日々の勤行による唱題行で、南無妙法蓮華経を唱えることで、百千万億の無数の諸仏に親近し、無量の道法を行じていることになる』
というのは、根源の実智を基に、それぞれに応じた道法を無限に使いこなすことを意味します。
これを、歴劫修行とは対極にある、
直達正観
といいます。
御本仏日蓮大聖人は久遠元初以来、仏を生み出す根源法の南無妙法蓮華経を用いており、(余行)歴劫修行を交えず仏界を開きました。
地涌の菩薩である凡夫の私たちも、南無妙法蓮華経の唱題で、そのまま仏界を開き、無数の智慧を湧現させる様は、南無妙法蓮華経に含まれているからこそ、まさに数々の歴劫修行を修めてきたとも言えるし、これから新たに精進していく意味も兼ね備えています。
このことは観心本尊抄にも記載されており、
未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す
観心本尊抄 246P
日蓮大聖人御書全集全文検索,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=246,(引用 2019-5-9)
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
観心本尊抄 246P
日蓮大聖人御書全集全文検索,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=246,(引用 2019-5-9)
ご本尊を受持し信心するものは、そのままで六波羅蜜の修行をせずとも、それを行ったと同等の功徳、六根清浄がなされると述べており、また、釈尊及び一切諸仏の積み上げた因行(修行)と結果(功徳)は日々の唱題にことごとく含有されている旨を述べられています。
直達正観の立場で掘り下げる
直達正観の立場で『勇猛精進 名称普聞 成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解』の部分をさらに詳細に読むと、文底の理解がしやすくなります。
勇猛精進は、シンプルにご本尊を信じ、唱題行に精進することです。
しかしシンプルすぎる故に、最も簡単でもあり、最も究めるのが困難でもあります。
勿論、いい加減にやっても価値がありません。
『勇猛』には信力を励み尽くす意味があり、『精進』には余行を交えず唱題し続ける姿勢、『名称普聞』には勇猛精進に唱題に励む地涌の菩薩の魂を、三世十方の梵天、帝釈、日天、月天、無数の菩薩、諸天善神に轟かせて護らせ、功徳を受けきり自由自在の大境涯を開いていくことを意味します。
『随宜所説 意趣難解』には地獄から菩薩まで機根の如何に関わらず、ただ信心して南無妙法蓮華経を唱えることが、歴劫修行の包含であり、直達正観の無数の智慧と生命力を湧現する、最も人生を最善に導く直道であることが、末法の悪道に汚れた生命には、なかなか解りづらい、
という風に読んでいきます。
妙楽大師の弘決に、
教弥よ実なれば位弥よ下く教弥よ権なれば位弥よ高き故に
四信五品抄 340P
日蓮大聖人御書全集全文検索,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=340,(引用 2019-5-9)
とあり、修行は仏と法の力の如何によって左右されます。
法が低ければ長期の修行を必要とし、法が深く、高ければ、さらに仏が偉大であればあるほど、修行も簡単に、かつ短くなります。
先生と教材で考えれば簡単です。
いい先生に、最高の教材で教われば、短期で、本人もストレスなく、圧倒的な成果が出ます。
簡単で狭い修行のように見えて、実はゴールのない奥深い修行である旨を四条金吾に述べた御書があります。
今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し、されども三世の諸仏の師範・十方薩埵の導師・一切衆生皆成仏道の指南にてましますなれば・ふかきなり
四条金吾殿御返事 1,116P
日蓮大聖人御書全集全文検索,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=1116,(引用 2019-5-9)
ともすれば私たち凡夫はすぐに世間の兵法に走りがちです。
唱題が簡単すぎるのも原因ですが、唱題をせずに策に走るその根底には“不信”が潜んでいます。
また、逆に唱題はするものの、勇猛精進の心なく、“なんとかなるさ”の心でお守り唱題をする人も多くいることでしょう。
信心は主体性を持って人生の目標ひとつひとつを打開していく楽しさがあります。
末法の衆生には『南無妙法蓮華経を唱えることが、歴劫修行の包含であり、直達正観の無数の智慧と生命力を湧現する、最も人生を最善に導く直道である』ということが、意趣難解である……、本当にそうですね。
この文底の意味をかみしめながら “不信にならず” “惰性に走らず” に思うがままの自由自在な自分へと共々に境涯を開いていっていきませんか?