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【謗法厳戒・謗法とは・意味】 鳥居をくぐった石原さとみは謗法なの?

謗法厳戒ってなんでしょう?クリスマスやお正月ってなんでしょう?

知ってるようでよく知らない謗法厳戒、その本質についてお話しします。

石原さとみと東京メトロCM

石原さとみさんが内部(学会員)なのは、みなさんご存知ですね?

彼女は創価学園(中学・高校)の出身です。創価大学には外部の方も多くいますが、創価学園生は基本、学会っ子(二世・三世)です。

彼女が、とあるCMに出演してから、一部の学会員から、謗法ではないか?と声があがっているのですが……

 

それは、東京メトロ(地下鉄)の街の魅力を紹介するCM。

このCMの中で、門前仲町の飲食店を訪れます。この飲食店は有名な神社の境内の中にある店舗。“鳥居”をくぐらなければ、入れません

このことが、一部の学会員には、掟破りをしたと映ってしまっているのです。

加えて、山ピーとの共演ドラマの中で石原さとみさんが僧侶と恋愛をします

このことから、僧侶の嫁ってありなのか?という疑問があがります。

まず、結論から述べますが、これらの行為は謗法ではありません

それではなぜ、謗法とはならないのか?これを理解するには、謗法そのものを理解する必要があります。

謗法とは?

まず謗法ほうぼうとは、誹謗正法ひぼうしょうぼうを略した言葉をいいます。

“誹謗正法”とは、正法を軽んじる言動や物品の所持等の行為を指し、概して正法を誹謗ひぼうすることを指します。

誹・謗とは“そしる”、つまりけなす、くさす、非難するなど、悪くののしることをいいます。

正法とは?

私たち創価学会員が行う信仰は何なのでしょうか?

南無帰依する妙法蓮華経妙法蓮華経に対して。つまり“法華経に帰依する”です。法華経の智慧、思想、大生命力が、仏の極めた究極の境涯です。

この境涯を勝ち取っていく為に日々、自行化他の修行を積み重ねて、六根清浄していくのが、私たちの信仰です

六根清浄し功徳を得て幸福境涯を開く為の正法

六根清浄していくから功徳が出る。六根清浄と逆をいけば、必ず罰が出ます

六根清浄の逆とは?

まず六根清浄とは何か、再確認していきます。

【参考】
六根清浄とは

六根清浄の逆とは、生命が濁ることです。例えば怠慢の命があります。

神や仏に救いを求める他力本願の生命は、外道げどうといい、自身の幸福を、自分以外の “なにか” に委ねる信仰が外道です。

外道は、惰性自身の“内省・向上心”を失う点から主体性の欠如を生み、怠慢の命・現実逃避を生み出します。

方術は謗法か?

方術とは、占い、祈祷、呪術等があります。方術に関しては天台大師は否定の立場をとっています。

方術は『魔の幻』と説明しており、一時的にいいように見えても、後には生命の魔性をおびき出してしまう、したがって天台は方術を使用せず、あくまで観心の実践(末法においては南無妙法蓮華経の題目)をせよと説明しています。

占いも、ただ自身の特性を知るだけならよい(但し自己への執着を煽るなら良くはない)ですが、そこからどうやって苦難を出現させないか、という執着を始めると六根清浄の逆を行きます。

本来持っている宿業は今世で演じるべき使命です。その使命を忘れ、宿業を恐れ、逃げるてしまうその精神の脆弱さは、かえって人生に苦しみを増やしていってしまいます。生命を強固に錬磨する六根清浄、宿命転換を避ける為に占いを用いることは、謗法なのです。

だからこそ、先生に名づけられた方々の姓名判断を実際にしてみると、勿論運気の強い氏名も、運気の弱い氏名も、出てくるのです。

先生はつまるところ、境涯、精神、を最も重視しているからこそ、名前の意味に最も重点を置き、姓名判断云々で占い師のように名前をつけているわけではないということなのです。

折伏は争いの教えではない

まず折伏とは何でしょうか?

折伏しゃくぶくは、相手が執着している低く浅い思想の誤りを明確に指摘して打ち破り、正法に帰伏させていくことをいいます。

これに対して摂受しょうじゅという化導法があり、これは、たとえ人々が低い教えを信じていたとしても、そのことを咎めず、仮に受け入れたうえで次第に人々を導いていく方法論をいいます。

現代は末法です。末法においては、折伏こそが時に適った正しい修行であると如説修行抄で説明されています。

今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折しょうしゃく二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば種子を下して菓を求る者にあらずや

御書 503P

しかし、末法でも摂受しょうじゅを実践すべきパターンがあることも開目抄で説明されています。

夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし

御書 235P

無智、悪人とは、仏法について無智な為に過ちを犯す人々で、このような人々が多いところでは、摂受をします。

安楽行品を指しているのは、他人の過失をあばかない口安楽行、嫉妬や謗りの心を抱かない意安楽行、そして人々を救うと誓う誓願安楽行などを指しており、これらの各種安楽行のように摂受をしていくという内容です。

対して邪智、謗法の者とは、仏法を知っていながら、自分勝手な考えで法理を曲げ、曲げた邪智に沿って正法を謗り、正法の行者を迫害する者たちを指します。

このような邪智、謗法の者が多数を占めるところでは、折伏をしていかなければならない、というのです。

しかし折伏の文字で言うところの折り伏せるというのは、争いを説いているものではありません。

折伏とは、感情的な論争や、論外手段を用いることでも当然ありません。

罪を憎んで人を憎まず。あくまでその当人とは切り離した上で、その当人の中の一部として存在するものの内の正邪を明らかにしていくことが折伏です。

正法を言い切り護っていくこと、これが結果的に相手の無明に光を灯すことになっていきます。

我々凡夫には、私たち現代人には、全ての仏教が大差なく似たり寄ったりに見えてしまいがちです。しかし、

我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云

御書 237P

詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり、とあるよに、正法を見極めて制していかないと、後にその人物が六根清浄に逆行し、苦しみの境涯へと落ちてしまいます。

子供を自由に放任し、なんでもいいよいいよと制することもなく、或いは嘘を教えて育てた場合、どんな大人になるのでしょうか?

この人物に慈悲を差し向け、折伏をしていくことが、果たして争いなのでしょうか?親や上司に異を唱えれば、反発に遭あうのは必然です。

しかし、親や上司が間違った薬の飲み方をしていれば、反発に遭うのを承知でもきちんと説明するのが慈悲であり勇気であり、これは争いではないのです。

ご本尊の正邪

日蓮、仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず。また、道理・証文よりも現証にはすぎず

御書 1,468P

まず、仏法を見極める上で重要な三証の内、最も重視すべき現証をみてみますと、世界中でSGIメンバーの人間革命と実証のドラマは枚挙にいとまがありません。

もし、学会のご本尊が間違いであり、学会の師匠と指導が間違いであるならば、信仰体験は生まれず、実証なきところ歓喜もなく、大発展にも至りません。

そして、信心の血脈とは、信そのものであり、大聖人直結なるところに通います。

大聖人直結とは、仏法を正しく、大聖人の仏界を正しく伝えていく師弟が本質です

したがって日寛上人のご本尊より日達上人のご本尊の方が云々という発想自体が低次元なのです。

なぜ謗法は地獄なのか

これまでの説明で謗法とは正法誹謗であり正法不信であることをお話ししました。

正法不信は即ち六根清浄の逆を招き、生命逆行です。

夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり、然りといへども信ずる者は成仏をとぐ謗ずる者は無間大城に堕つ、「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり

御書 1,307P

このように正法不信の生命逆行は、地獄に落ちてしまいます。

地獄とは地獄界を指す

地獄に落ちるとはオカルトの話しではありません。境涯の話です。

例えば、天界の境涯でアルコールを楽しみます。しかし、常用依存に陥り、アルコール依存症に至ると、餓鬼界の境涯を発現します。

入院治療や、施設での矯正など、適切な治療をせず放置してしまえば、そのうちに肝臓は破壊され、アルコールをとらないと意識を保てないのにアルコールをとると死に近づくというどこにも逃げ場のない地獄界の境涯に辿り着きます。

次例として、逃げ癖(逃げ癖は愚痴であり弱さなので、畜生界の境涯)のあるサラリーマンが、転職を繰り返すなどして、最終的には履歴書に嘘を書き、どこにも雇ってもらえなくなり、経済力を失いいよいよ八方塞がり、地獄界に辿り着く、などもございます。

いづれも六根清浄の生命ならば、アルコールは節度を弁え、少欲知足なので常用依存化しません。また、逃げる生命は挑む生命へ、愚痴の生命は理解の生命へ変化し、愚かな転職をしなくなります。

これらのように生命逆行をすると、いづれは地獄界の境涯に身を置くこととなり、この境涯に至る生命状態を、地獄に落ちると言うのです。

死は睡眠、生は覚醒

人間の睡眠を用いて人間の生死を説明した指導があり、目覚めて覚醒の状態が丁度、生きている状態、睡眠についた状態が丁度、死んでいる状態と説明されています。

人間は死んでいる間は宇宙で過ごし、次の使命を待っています。

例えば、地獄の苦しみを持つ人間が眠りについても、悪夢にうなされ、脂汗をかいて、全身を掻きむしり、所々に痛みが走り、熟睡ができません。

このように、地獄界は寝れば解放されるわけではなく、地獄界の生命を引きずったまま眠りにつきます。

同様、人間は死んでも、生前の境涯のまま宇宙で次の生を待つことになります。

自殺をすれば、更に逃げ場なき苦しみが待っているのが真実なのです。

謗法と宿業で縛る権威仏教

謗法罪障消滅祈願は大事ですが、だからと言って過去を後悔し、気にかけ、引きずることは、六根清浄の逆を行きます。

今、現時点で起こっている宿命という一点を、ネガティブに捉えることが宿業であり、ポジティブに捉えることが使命です。

宿業と捉え、罰と捉え始めると、目線が過去へ過去へとフォーカスしていってしまいます。絶望感に覆われてしまうのです。

逆に、使命と捉え、ドラマの演者と捉え始めると、目線が今と未来へフォーカスしていきます。生き抜く意味を見出すのです。

今までの罪は、仮に全て見ることができるようになったところで、ただ自己否定の命が強まるだけです。

仏教史においては悪業ばかりが協調されてきた

仏教史においては悪業の方ばかり強調して、民衆支配に悪用した例が枚挙にいとまがありません。

聖職者が人々を業で縛りつけ、権力と癒着し、人権抑圧の道具にしてきました。

この点に関して、池田先生は、日蓮大聖人の仏法は悪しき仏教の方向性を乗り越えたと示しており、ひとつは、宿業は必ず転換できる、そのことを教えるために宿業を説いている、という点です。

もうひとつは、自分の宿業を真正面から見つめて、切り込んでこそ仏界を顕せる、という点です。

一つ目について、宿命転換を示さない宿業論は邪道であると説明しており、二つ目においては、自身が宿業から解放された後には、今度は宿業で苦しんでいる他の人々を救い、人類の宿業にさえ視野を広げて見ていき、自行化他の仏界の境涯が開かれていくという指導です。

謗法と地獄は誠に恐ろしいものでありますが、それは、人が人に責めていくものではなく、あくまで自身が向き合っていくべきものなのです。

人が人に為していくのは、あくまで宿命転換を説くことであり、希望と励ましを送ることなのです。

組織は人で決まる

例えばあなたの組織に宿業論を振りかざしては、あなたの過去の謗法を責めてくる人間がいないでしょうか?

これまでの説明の通り、宿業論、謗法論、過去の罪の汚れが云々と、人間を縛る組織に歓喜はありません。

そもそも宿命は使命であり、人生の汚点ではなく、人生の醍醐味なのです。

それを、やれ命が汚れていると誹謗を重ねるその組織の指導が正しいはずがありません。

正法とは、結果が出るかどうかが重要であり、師匠と指導と同志、つまり組織ので決まるのです。

法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し

御書 856P

同じような本尊、同じような御書、同じような題目、しかして最後には法を広める師匠がどうなのか?その組織の師弟が果たしてどうなっているのか?ここが正法を見極める重要な点であり、信仰体験(現証)が重要なのも先の説明の通りです。

立正安国論第8段 謗法への布施を止むことを説く

これまで様々正法と謗法を話してきました。立正安国論第8段で大聖人は、“謗法を断ずる”とは、“謗法の僧や寺に対する布施を止めること”、と明かしています。

結論、タイトルの『鳥居をくぐった石原さとみは謗法なの?』についてのお話をします。

クリスマス、お正月、バレンタイン等は謗法ではない

宗教に由来する行為、物であっても、それを信仰の対象としないのであれば、謗法には当たりません。あくまで思想信仰心の介入がないならば、六根清浄の逆行とはならないからです。

十字架のネックレス、仏像のタトゥーなどを掘る若者の心は、その大多数がファッション性を占めており、特定の宗教心がないのであれば、あれもこれも謗法と騒ぐ必要はありません。

そもそも、風俗・文化の淵源には、何らかの宗教性が混在しています。それらを潔癖に排除してしまっては、人類文化全体の否定となってしまうのです。

したがって、石原さとみは謗法なの?に関しては、勿論、鳥居をその神社の信仰心をもってくぐっているわけではありませんので、謗法ではないということです。

布施を止めるという点で深堀りしますと、少々複雑です。

その神社がお金を払ってCM起用を頼んできたのであればまだしも、東京メトロがCMを流したくて制作会社に依頼し、制作会社がその神社で撮影したいからと神社に撮影料を支払っているのであれば、結論布施に当たります。

しかして演者がそのCM起用を断ったところで、別の演者が起用され、結局そのCMが作成され神社にお金が流れるならば、オファーを断る意味はあまりありません。結局全ての民衆が賢くなり、謗法厳戒を意識しなければ成立しがたいものです。

したがってこのお金の流れ云々の詳細は、私たち素人には判別がつかない以上、とやかくいうことができないのです。

私たちにできることは、謗法への布施を止め、謗法産業の一翼を担わないことをしっかりと自覚することです。

 

民衆を如何に賢くしていけるか、ここにこの国の宿命転換の全てがかかっているのです。


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