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【幹部指導】基本は御書と三代会長指導 / 我見で指導するなら罰を受ける覚悟が必要?

幹部指導を受けた際、それが我見(個人の勝手な意見)なのか、きちんとした指導なのか、よくわからないときはないでしょうか?

まず、我見とは何か?そして指導をする側が注意すべき点を考えていきます。

我見について【戸田先生の指導】

我見がけんとは『自分だけのかたよった狭い意見・見地』のことを言いますが、何も全ての事柄について言っているわけではありません。

仏法上の我見とは、あくまで法理・思想・解釈など信心について、大聖人や三代会長に違背している考えを我見といいます。

世間法に関しての細かな事柄については、我見はNGなどと言ってはいません。

したがって、家を買うだとか、進学・就職をどうするだとか、そういった世間法に関しては、個人の確信の元に選択すればよく、その道のプロ・通達者に相談するのが普通であり、それら(世間法)を組織の幹部にいちいち指示を仰ぐのも、またお節介にも幹部が介入してくるのもナンセンスということなのです。

ただ、世間法の変化(例えば転職して生活環境が変わる等)に伴って、信心をどうしていけばいいのか?となりますと、我見ではなく幹部に相談して信心指導を受けるべき、ということを言っています。

 

『天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか』

信心を確立すれば(天晴れぬれば)、自分の行動に明確な自信が現れ(地明か)、その行動に誤りがなくなる、という上記御書を用いた戸田先生の指導があります。

ご本尊を絶対と信じ切り信行に励む(法華を識る)者は、世間法に通達する(世法を得べき)という意味です。

ビジネスの知恵、サラリーマンの処世術、一家和楽の知恵、子育ての神髄など、明確に知るという指導です。

 

『体曲がれば影ななめなり』

だからこそ、信心がまっすぐでないと、世間法の通達が遠回りになります。

「日蓮大聖人は『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり』御書P992 と仰せになっいます。

体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも順調に進んでいくんです。また、たとえ仕事で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力がでるんです。

戸田先生が事業で行き詰った要因の一つは、自分が第二代会長になるのを避けてきたことにあると、私に語ってくださいました」

 

その時、戸田は、こう言ったのである。

「私は、牧口先生の遺志を受け、会長として立って、広宣流布の指揮をとらねばならぬことは、よくわかっていた。しかし、会長の責任の重さを考えると、ためらわざるを得なかった。とても、あの牧口先生のようにはできぬと思ったからだ。しかし、それは仏意仏勅に反することであった」

「自分が躊躇していた分だけ、広宣流布を遅らせ、民衆は不幸に喘ぎ続けた。私は、自分の事業が完全に行き詰まって、初めて目が覚め、そのことに気づいたんだよ。私たちには、広宣流布という久遠の使命を果たす使命がある。学会の役職はそのための責任職だ。疎かに考えてはならん」

 

伸一は、学会の役職について、戸田が語っていたことを、かいつまんで話した。

(忙しいからと役職を避けていた壮年に対して)
伸一は、その後も、折々にその壮年と語り合い、激励を重ねていった。やがて壮年は学会の役職にも就き、幹部として張り切って活動に励むようになった。

ところが、しばらくすると、また、「仕事が忙しいから」と言って、学会活動をなおざりにするようになった。

ほどなく、株価の大暴落が起こった。彼は、あれこれ手を尽くしたが、乗り切ることができず、会社は倒産してしまった。

壮年は再び反省、奮起し、信心に励むと、業界で推されて新しい会社を任された。だが、資金繰りに追われる日が続き、また、活動から遠ざかっていった。その会社も、わずか八か月で破綻したのである。

 

後年、この壮年は、『体曲がれば影ななめなり』P992 とのご聖訓に絶対間違いはありません。信心という根本を忘れて、二度も地獄を見た私が言うのですから、間違いはありません」と、伸一に述懐している。

 

新・人間革命26巻 奮迅

以上、様々な指導にあるように、根本の信心がしっかり確立されていれば、それらに付随するあらゆる世間法はおのずと習得していく方向へ向かい、また諸天善神や福運も味方していく、ということです。

しかし、根本の信心が謗法に侵されていれば、たとえ一時成功しているように見えても、必ず滅びていくのが仏法です。

このように、我見の信心は極めて恐ろしいものでもあり、言い換えれば我見を打ち破っていくことによって人生勝利を手にすることにもつながっていきます。

幹部指導が誤っているならば、その罰は全て幹部が背負う

信心をまっすぐに信じ切り、信行学に励むことがいかに重要であり、また恐ろしいことでもあるのか、ご理解いただけたでしょうか?

ここで考えていきたいのは、新入会者や知恵の浅い者や依存心の強い会員などを支配下におく、第六天の魔王の傾向性のある幹部です。

ともすれば信心指導とうたっては、我見を披露し先導するこの例において、新入会者などはそもそも判断の基準さえ曖昧な状態で相手の指導が誤っていても分別することができません。

誤った指導・我見の例

例えば大智度論には

仏法中の心病を治するも亦是の如く、不浄観の思惟(心身の過失をみぬくこと)は、貪欲病の中に於いては、名けて善対治の法と為せども、瞋恚病の中に於いては、名けて善と為さず、対治の法に非ず。

何となれば、身の過失を観るを不浄観と名く、若し瞋恚の人過失を観れば、則ち瞋恚の火を増益するを以てなり

とあります。また、同じく大智度論に慈心観に関して、

慈心(好事を求め功徳をあらわす心、行為)を思惟するは、瞋恚病の中に於ては名けて善対治の法と為せども、貪欲病の中に於ては名けて善と為さず、対治の法に非ず。

何となれば、慈心は衆生の中に於て好事を求め功徳を観ず、若し貪欲の人、好事を求め功徳を観ぜば、則ち貪欲を増益するを以てなり

と続くのです。

貪欲の人、つまりは餓鬼界の衆生に、この好事(功徳と表現し実質的には快楽)を示し、そして好事にのみとらわれてしまえば、かえって貪欲に火をつける結果となってしまう、という内容です。

加えて、因縁の法に関しては、

愚痴病の中に於て、名けて善対処の法と為せども、貪欲瞋恚病に於ては、名けて善と為さず、対治の法に非ず。

何となれば、先づ邪観の故に邪見を生ず、邪見は即ち愚痴なるを以てなり

ともございます。これをみればわかる通り、地獄餓鬼畜生におおわれた生命に、いきなり因縁の法を説いても効果のうすいことは、想像にかたくありません。

 

ここで言われているのは、相手の生命状態をよく観察し、対応する指導を思惟すべきとの主張なのです。

例えばギャンブルや酒、或いは性に依存症をもっている新入会者がいたとします。

そのような人に、折伏唱題に励んで宝くじを当てよう、新聞啓蒙して功徳で絶世の美女と付き合わせてもらおう、などと指導する幹部がいれば、ともすれば信じてそこを目指す会員さんが現れてしまうかもしれません。

しかしこれは依存症に火を注ぎ、より本人が苦しんでしまいます。

本当の功徳とは六根清浄であり、少欲知足の先にある仏界という境涯です。

 

本来指導とは、相手と真剣に向き合い、自身が相手となりかわった上で、どのように乗り越えていくかを思惟するものです。

自身が相手であったならばどうすればよいか、もしも曖昧ならば、指導側自身が地域幹部や学会本部に指導を受けてから、その会員さんに指導していくのが筋です。

 

相手の命を左右させてしまうものであるからこそ、我見による誤った信心を教えるならば、その罪は全て指導した本人が背負うことになります。

何もわからない子供に毒水を体に良いと飲ませて、なぜ子供に新たな罪が背負わされるのでしょうか?

いじめは100%いじめる側が悪い、という池田先生の指導にもあるように、我見指導を先導する人間が100%悪く、教えられた側に罪はなく、その罰は全て教えた人間にめぐっていきます。

 

指導をするなら、相手を祈り切った上で、正邪に確信を持てるほどにまず自身が指導を受け切って、そして覚悟をもって指導にあたることで、罰を回避し、無量の功徳を得ることになります。

 

心の師とはなるとも心を師とせざれ

かくいう筆者も、この記事が大聖人の意思に背き、三大会長の意思に背いたものであるなら、その罰は全て受ける覚悟で執筆しています。

心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。

設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし

御書 1,088P

縁に紛動される自分自身の心を中心にしてしまうと、利己主義逃げ癖に振り回されてしまいます。

現実がどうあっても、不動の自分自身を築き上げ鍛えていく、利己主義でなく、ご本尊を中心にそえて。それを心の師と言っています。

 

凡夫の私たちにはよくわからないことですが、それを具体的な行動で示しているのが、三代会長・師匠です。

結局のところ、師匠についていけるかどうかが、我見と無明に覆われるかどうかの差なのではないでしょうか?