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【川崎事件/概要】《一人で死ね・賛否まとめ》容疑者の動機と原因|本質的な対策案とは?

まずろんを始めるにあたって、トランプ大統領の哀悼の意あいとうのいをご紹介します。

「事件の犠牲者につつしんで哀悼の意をささげる。すべての米国民アメリカこくみんは日本と被害者の方とともにあり、被害者の家族とともに悲しんでいる」

川崎通り魔殺傷事件かわさきとおりまさっしょうじけんに関して、様々な視点、立場からの意見があり、読者の方へ何かの参考としてもらいたく執筆させて頂きますが、その前にまず、私自身、被害に遭われた関係者の方々へ深く哀悼の意をささげます。

何をどう書いても批判されるのはまぬがれがたいものでありますが、少ない知力の中でできる限り言葉を選んで書かせて頂きますので、どうぞご理解頂ければと願っています。

 


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川崎通り魔殺傷事件・事件場所・事件概要

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2019年(令和元年)5月28日(火)
令和が始まってまだひと月もたたない、人々がにぎわったGW10連休明け22日目

午前7時45分ごろ、神奈川県川崎市多摩区の登戸駅周辺の登戸第1公園前のバス停で大人・子供複数名が刺される無差別殺人事件が発生しました。

小田急線登戸駅の多摩川口(北側)から北西に徒歩1、2分の位置に「登戸第1公園」があります。

 

川崎市多摩区登戸新町の路上でスクールバスを待っていた児童17人大人2人容疑者に次々と刃物で刺されました。

小学6年生の女児と30代男性の計2人が死亡。40代女性1人、小学生女児2人の計3人が重傷を負っています。

容疑者は自ら首を刺し搬送先の病院で死亡が確認されています。

 

川崎事件・被害者

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まずはこちらの記事を自分が被害者家族・親族であるとして読んで想像してもらえませんでしょうか?

自分が妻であったとして、英雄と言われて拡散されているこの記事をどう感じるでしょう?

少なからず感情が先行してしまい、違和感しかない。英雄と称された“良い話”が拡散され、多くの“いいね”を生んでいる様子は、私なら、虚しい。

私の価値観がおかしいのかもしれません。

ただ、虚しいと感じるからこそ、そっとしておいてほしいと感じます。

なぜ見出しで被害者と記載したかと言えば、川崎・被害者、のワードで検索している人が多いからです。

事件当日から近隣住民まで含めてマスコミによる取材が行われているはずです。いつまで続くのでしょう?葬儀が終わるまで張り込まれるのでしょうか?それとももっと長く取材は続くのでしょうか?

私なら、やめてもらいたい。

 

不用意に誰が被害を受け誰が亡くなり、など知らぬまに顔写真まで掲載されるなどしてほしくないからこそ、川崎事件・被害者、のワードでこの記事が上位にあがって、調べてほしくない旨をあなたならどう感じるか?と投げかけるべくこの見出しを書きました。

あくまで私の価値観であって、少数派かもわかりませんが、私が被害者なら被害者を検索してほしくありません。

 

前置きが長くて申し訳ありませんでした。
ここから記事の本題の一人で死ね・賛否に関してと事件の原因解決案まで一気に述べていきます。

 

“死にたいなら一人で死ね”という『願い』も正しいのではないか?

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人々の大多数は『一人で勝手に死ね』ごくごく当たり前の想いを抱きました。ヤフー知恵袋やツイッターなどでも筆者の体感的な感覚では半数以上が『一人で勝手に死ね』と強く主張しています。

しかしその主張が誤りであるとして、罪を憎んで人を憎まず、や責任の所在を個人ではなく社会へもっていく論調をもつ人もいて、一定の支持を得ているのもたしかな事実です。

わたしは正直被害にあった側なのか、被害に遭わなかった側なのかで、言っていることが変わってしまうかもしれない、と感じているので、どちらも正しいのではないかと思ってしまうのです。

 

以下はヤフー知恵袋の質問です。
青文字のリンクで議論されている元の記事を参照できます。

川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしいについて

こいつの言い分、あり得ない。「死にたいなら一人で死ぬべき」まさにこれ以外の言葉はない。
被害者感情も理解できず、冷静な意見を述べる奴は、心のわからない偽善者だと思う。

 

被害者感情、偽善者……。

やはり自分が被害にあった側なら犯人擁護のように聞こえてしまい、イラだちはぬぐえないかもしれない、そう考えると突き刺さってくる偽善者という言葉。

 

またさらに別の問では

貴方の家族が被害者になっても同じこと(犯人は悪くないみたいなこと)が言えるのか?

被害者家族にその言葉を言い放って、どれだけ暴力となるのか。
加害者を非難罵倒することで狂気を抑止する事をメッセージとしろ。

 

暴力……。

これも同様被害にあった側なら……。

 

そしてこれに対して

加害者を非難罵倒することで狂気を抑止することになるのか?

などのたぐいもありましたが、

 

これは私はNOだと思うのです。

犯人は最終的に自殺を選択するほどなので、そこまで自分自身をどうでもいいと思っている自暴自棄の人間は、避難されることなどどうでもいいと考えているはずです。

ある意味で手段として可能なら核爆弾さえ落としてやりたいと考えていたはずです。

次の事件を抑止する為に加害者を非難罵倒、まったくもって無意味と感じるのです。

 

結局のところ、“死にたいなら一人で死ね”というのは感情的な言葉であって、表現を変えれば、“他人を巻き込まないでほしい”という趣旨であり、つまりは『願い』の部類の言葉なのではないかと感じています。

川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしいを書いた藤田孝典氏は、“死にたいなら一人で死ね”という突き放した表現の中に潜む悪ひそむあく否定したかった。

 

しかし、結果としてそれが、“他人を巻き込まないでほしい”という『願い』を否定したように、また犯人を擁護したように受け取られてしまったから、今回の炎上となってしまったのではないでしょうか?

藤田孝典氏が伝えたいことも正しし、“死にたいなら一人で死ね”という『願い』正しい、そう私は感じています。

 

なんでもかんでも偽善者という表現でくくるのだって正しいのではないか?

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まずはこちらをご覧ください。

これを見て、あるいはこの参考記事を読んで、感じることはその人の価値観によって様々でしょうが、悪意を感じる人も、善意を感じる人も、またこれに対して偽善者という論評をする人さえ、います。

なんでもかんでも偽善者という表現でくくってきます。

冷静に考えましょう。心からいたみ、花をささげる、そんな人が大多数なはずです。

心からの善意にさえ、偽善者偽善者と非難することにはいきどおりを感じます。

さきほどの藤田孝典氏に対しても、彼の中の心からの善意に対していちいち偽善者偽善者と非難する姿勢……。

 

しかし考えれば偽善者と非難すること、それだって正しいのではないかとも感じます。このような凄惨せいさんな事件に便乗して献花けんかするような悪意の持ち主だっていることでしょう。そのような人をけん制する意味でも、偽善者と揶揄やゆ、否定しておけば、一定数の偽善者は減らせるかもしれないからです。

 

いづれにせよ、偽善者と非難する人の心の中にも正義があり、偽りの正義という欺瞞を是正してやりたい正義感” からくるものであれば、正しいと感じるのです。

上述のように、心からの善意さえ、偽善者と非難するさまには憤りを感じますので、なんでもかんでも偽善者と言って騒ぐべきではないと感じます。

しかして一定の鋭く見抜いた非難が必要なことも事実である、そう思っています。

 

“死にたいなら一人で死ね”という思想をやめてほしいという『考え』だって正しいはず

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刺した犯人は自殺しました。麻原彰晃あさはらしょうこうのように何も語らず、何もわからず。

本当のことは本人しか解りませんが、私は犯人は、『くやしさ』を限界まで持ち込んだ人物なのでは?と感じています。

愛されることもなく、認められることもなく、全ての社会から存在を無視される。全社会的いじめです。

勿論根本的には本人が悪いです。ただ……、

自己肯定感空っぽであり、承認欲求の飢餓きがであり、願望は何一つ叶えられない。

自分を否定し無視する人間、自分を否定し無視する社会を、恨みに恨み、悔しくて悔しくて、どうしようもなかったのではないか?

 

『ぶっころしてやる!!』と叫んでいたという情報もありますが、もし真実ならば、まさに私たちひとりひとりと社会全体に対してなのでしょう。

『ぶっころしてやる!!』と犯行後に叫んで自殺した、という情報ソースは新聞の目撃者情報です。目撃者情報という性格上、真実か否かは定かではありません。終始無言の犯行だったという情報もございます。

 

もしかしたら私たちが既に加害者なのかもしれない

“死ぬなら一人で死ね”と言っている人自体が、実際のところ、無視・無関心といういじめを慣行する差別主義者であり、他者など知ったことかと考える自己中な人間であり、総じては無慈悲な社会思想そのものであるのではないでしょうか?

つまり、“死ぬなら一人で死ね”と言っている人が、めぐり巡って事件を間接的に引き起こしているのではないでしょうか?

現実世界には隠れ発達障害を抱え、障害と健常とのグレーゾーン辛酸しんさんをなめている人だっているのです。

グレーゾーンの友人いわく、いつか秋葉原のような事件を起こしてしまうかもしれない……、と何にぶつけていいかわからない悔しさにじみ出していました。

あなたの周りにもどうにも苦しく生きている人がいるはずです。

 

『あの人は面倒だから関わるのはやめておこう

こういった個人を孤立させる行為をひとりひとりが行うから、関わるのをやめられてしまった側の人間の自己肯定感は空っぽになって承認欲求不満となって、人を、世界を、うらんでしまうのではないでしょうか?

そういった人を、地域で、コミュニティで、放置すればするほど社会的無視となって恨みとなって悔しさとなって、どこかの偶発的なきっかけひとつで新たな事件となるのではないでしょうか?めぐり巡って女子供おんなこどもという物理的弱者ぶつりてきじゃくしゃ発奮はっぷんされてしまうのではないでしょうか?

 

今、日本の9割は人間関係で悩み、苦しんでいると言われています。

皆が皆、認められないくやしさに悶々と生きています。

 

責任の所在は個人なのか社会なのか

上記のように説明してしまいますと、社会が悪い、本人は悪くない、と捉えられがちです。

私の結論は、どちらにも問題意識をもつべき、ということです。

半半はんはんです。勿論上記のように社会に問題があり、また、そういった人物に対して無関心・無視・差別を行ってしまう私たちにだって問題があり、当たり前の話で最も問題なのは、犯した個人、本人です。

その人にはその人の資質があり、たしかに限界があります。すべてに比較し劣等感を抱える性質、嘘に嘘を重ね何も信じれない性質、どう転んでもネガティブにしか受け取れない絶望にさいなまれた性質……、しかし、どのような資質であっても、学校で人格を育てたり職場で人格を育てたり所属のコミュニティで人格を育てたり、できたはずです。

みんなが面倒がってスルーしたのではないか?

みんながみんな、そして最後には自分自身でさえ面倒になって、スルーしたのではないか?

だれも皆、無差別殺人がしたくて生まれてきてはいないはずです。

一方的な自己責任論への押し付け、一方的な社会責任論への押しつけどちらがどうという論自体が最早もはや無責任そのものなのではないでしょうか?

この記事の読み手の方は、心あるなら、どうか自分にも責任があったと感じて頂きたいのです。

政治や選挙など全てを包括してこんな社会を形成してしまった一員いちいん[一因]として。

 

自己肯定感のバケツに穴のあいてしまった、一向に承認欲求が溜まらない、ある意味で欠陥けっかんのある人間でさえ、周囲が存在を承認し続けてあげる地道な関わりがあれば、あるとき変わる瞬間が訪れます。

犯行予備軍かもしれないと自分に疑いを持つ人も、どうか腐らずに、社会、もとより人間の善意を信じてほしい、人間は変われると信じてほしいのです。

 

カテゴリ・属性 [引きこもり・在日・宗教etc.] への偏見は次の事件を生む

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SNSでは事件後の報道や憶測をもとに様々なカテゴライズ差別・属性差別が勢いを増しています。

犯人は在日なのではないか?うつ病なのではないか?キリスト基盤のカリタス学園を狙ったのではないか?

マスコミが決定打を打っているのは、引きこもりテレビゲーム機、の報道です。引きこもりを犯罪予備軍と紐づけする為の報道であるかのような、悪意を感じませんか?

この報道の本質はカテゴライズ差別のなにものでもありません。

先ほども申し上げたように、自己責任論の一極化、社会責任論の一極化、では最早解決できないと思うのです。

責任の主体者は自分です。

ただ、こういったカテゴライズ差別の裏には、犯人をカテゴライズして自己責任論に転じる姿勢や、あるいはそういった属性の人間を否定し、その属性の人間を生み出す社会責任論に転じるなど、つまりマスコミたち本人は、自分たちは微塵も悪いと思っていないのです。

報道ひとつで、報道の善意ひとつで、差別も軽減できる。その立場にありながら、この社会を間接的にも作っているマスコミ当人たちからは、事件の責任も、今後の事件の防止責任も、一切感じていないように思う無責任報道。

それこそ私のマスコミを見る目が悪意を持って悪く見ようとしているのでしょうか?

わかりません。善意で真剣に番組を作っている関係者の方々には、そうやって見てしまう私を申し訳なくも感じている部分だってあります。

 

ただ、今回の事件の本質を自己肯定感欠落による精神崩壊とみている私は、属性差別は次の事件を生むだけであると考えています。

また、事件の背景的要因にコミュニケーションの断絶もあるとみているので、やはり属性差別は特定の人間とのコミュニケーションをやめてしまう意味でも同様に次の事件を生むであると思うのです。

 

冷静に考えましょう。引きこもり引きこもりと言って差別し始めれば、それこそ本当に外には出てこれなくなります。

社会的いじめは、もううんざりです。

 

動機と原因と本質と対策・私たちができる“たったひとつの対応策”とは?

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以上のことからまとめますと、

  • 事件の動機原因は自己肯定感の欠落、承認欲求不満、人間の善意を信じれない絶望なのではないか?
  • 事件の本質は人と人のコミュニケーション不足が生む人間に対する不信が根っこにあるのではないか?
  • 事件の解決策・今後の対応策は、人と人が積極的に関わり価値観の違いをお互いで否定することなく、人間の善意を信じることを個人レベルで各々おのおのが自身の身近みじかな周囲から実践して、信頼ある社会を建設していくこと、なのではないでしょうか?

具体策の一つとしては小学校側でボランティア活動地域コミュニティの交流活動、などを積極的に行い、関わり、孤立した個人を生まないように行動する手段が考えられます。

勿論、児童、保護者の傷が癒えてからです。時間をおいてからです。

 

事件を起こした容疑者はどうしようもない、本当に救いようのない人間なのでしょう。

自殺して“何もかも全て”を親族に、社会に、丸投げにして逃げきるなど、これほど卑怯ひきょうなやり方は誰も許せない。

 

ただ、小学校の児童との交流ボランティアなどをコンスタントにコミュニケーションがあれば少なからず児童たちに対しての殺意は芽生えなかったかも、しれないのではないでしょうか?

 

わかりません。実際は。このような交流があっても、やってしまうかもしれないです。

ただ、コミュニケーションがあれば、違っていたかもしれない。

だからこそ、たったひとつの対応策として、『関わりを持つ』こと『コミュニケーションを積極的にとる』ことを提案したいのです。

 

 

凄惨せいさんを極めた今回の事件、

他人事と捉えることなく、自分も社会的いじめをしている側の人間かもしれないという自覚をもって、加害者意識を認識した上で、他人の自己肯定感の欠落を生まないよう、感情まかせの否定を少しでも減らして、日々様々な事柄を許してあげられる人間を目指し、寛容かんような社会を目指していきたいと感じています。

 

そして“死ぬなら一人で死ね”などという相手を無関心に想う思想を少しでも減らして、“他人を巻き込まないでほしい”という願いとして変換し受け止め、そもそも自殺者そのものを生まないように、どのコミュニティにでもひとりはいる孤立した一人に声をかけてあげるような温かい人間温かい社会をどうか共に、目指していってほしいと願い、読み手の方々は人間の善意を信じれる方であることを、

“信じて” この記事の結びとします。