自分が変わるのは信心の基本です。ただ、自分が具体的に何もできないときもあります。学会指導や実体験を元に、無理だと思う状態から脱却する “祈り方” の参考になれば幸いです。
夜勤のファミレス時代
人間関係の悩みは切っても切れないものです。筆者は男性ですが、とかく男性の人生はほとんど全てが職場であるのが普通でしょう。
つまり職場の人間関係がまるで家族のように長くなってきます。家族のように長いときを共に過ごすのに、とんでもなく苦手な人や人生最大の親友のような存在にだって出会ったりしますよね?
不思議とそんな“合わない人”と“合う人”とに、出会います。本当に縁って不思議です。
筆者も色んな縁に振り回されてきました。
夜勤の調理場をやっていた時代には本当に働かないクセにひたすら偉そうに指示してくるだけのただのバイトのおじさんがいました。
毎日毎日誰かの悪口を言ってはただただダラダラと仕事をしたりさぼったりして、誰の仕事も手伝わない。夜勤は基本的に店長のいない時間帯なので、夜勤の店長と言わんばかりのお局のおじさんです。キレると感情が制御できず騒ぎちらすので誰も何も言いません。
あの頃は、そのおじさんを心底に交通事故かなんかで死んでしまえと恨んでいましたし、呪っていました。
題目をどんなにあげても許せません。
その当時毎日一時間はあげていましたが、そのこととは別のことばかりを祈り、問題を問題と受け入れず放置していました。大百や新聞、御書を学ぶこともなく、境涯は修羅止まり。
いまでこそ自分の命も相手の命もよくわかります。ただ、あの頃は、日々こなすだけで考える余裕すらなかったことが最大の不幸だったのかもしれません。
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介護士時代
介護士をやっていた時代には同僚の暴力で怪我をして退職しました。その同僚は刑務所あがりでしかも内部の人でした。内部なので安易に批判もできないと認識していた当時は、結局自分さえ辞めてしまえば相手は幸せだろうと、なにもかも放置して職場を去りました。
悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり
【御義口伝巻下 762ページ】
日蓮大聖人御書全集全文検索,SOKAnet,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=762,(引用 2019-1-27)
との御書がありますが、功徳といっても悪を取り除く作業がなければ完結しません。結局相手の悪を勇気をもって指摘できない弱さが振り回される自分自身という不幸を作っていたことに、今になって気付かされるのです。
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中華料理店時代
とある中華料理屋で務めていたときにはこんなことも起こりました。
現実的に不可能な作業を突き付けられ妥協してもらえません。他の人(店長も料理長も)たちは、しょうがないよねと理解してくれるですが、その一人だけが、許してくれません。
あるときその一人がついに感情を制御できず筆者に爆発しました。人生初の壁ドンです。文章だと伝えるのが難しいですが、個人的には介護のときに負傷した以上の恐怖は感じました。
河合師範の指導
とある女子部が “職場の嫌な同僚が辞めますように” って祈っていいですか?と河合師範に質問し、相手の成長を祈りなさいと指導されました。
相手の成長を祈り始めると、その同僚が、
師範曰く
『相手の成長を祈ったから相手が変わったんです。みんな結構「あの人は変わらないよ」と思って祈らないもんです』と。
このときも筆者は学会でよく指導される依正不二とか相手は自分の鏡であるとか知っていましたし、信じていたので祈ってはいました。だけどもこのような自体は起こります。相手の幸福は祈っていたのに、です。
ただ、この幸福というものが自分の境涯の低さをもろに反映させていました。世間でいう嫌なことがないとか、金があるとか、そういったイメージを幸福と置き換えてご本尊に祈っていたんです。そんな祈りをしていたので、その壁ドンの同僚に対して“成長”はまったくもって祈っていなかったのです。
否、成長できるとさえ思っていませんでした。
北海道の迷惑婦人部
とある北海道の迷惑婦人部の話があります。縁する人全てを不幸に落とし込める最凶の婦人部です。周りの学会員は善良で王道の依正不二でもってこの婦人部が変わらないのは私が変わりきれてないからだと自分たちを責めます。違うんです。
世の中には相手が100悪いこともあるんです。池田先生の指導でいじめはいじめる側が100%悪いという指導は有名ですよね?
勿論厳密には己の過去世の業があるから、本質的にはその本人も悪いんですが、過去世の因果とかとっぱらってその瞬間だけをみたときに、相手が100悪く自分を責める必要がない(自分が具体的になにか行動を改善してあげる必要のない)パターンもあることを知ります。
壁ドンパターンはまさにそれでした。
自分はすでによくやっていて、問題なのは完全に相手側の境涯、機根。
なのに自分ばかりを責めて、相手の悪は責めず、間違った幸福感(快楽のようなもの)で相手を祈り、相手の成長はまったく祈っていませんでした。
変わるわけないんです。これでは。
現在は違う職場にいますが、人間関係は良好に保てています。
使命感を持てば、全てが人の為になります。ひとのために火をともせば我がまえのあきらかなるがごとし。との御書のとおり、ひとのためと勤めれば四表の静謐が整ってきます。
相手が幸せでないから、相手の境涯が低いから、そいつはなんか感じが悪い。言い方がきつい。嫌味を言ってくる。
誰彼ばっかりサボって働くのなんてバカバカしい。などと小さい自分でいることなく、境涯を高めて、相手の幸福と大成長をご本尊に祈り切って、人の為人の為と多いに使命感をもって働いてみてほしいです。
だんだん解ってきました。その人はしょうがなくそのようになっているという真実が。
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依正不二(えしょうふに)
依正不二の意味、以下引用。
依報と正報が、一見、二つの別のものであるけれども、実は分かちがたく関連していること。
妙楽大師湛然は『法華玄義釈籤』で、天台大師智顗が『法華玄義』に説いた十妙を解釈する際に十不二門を立てたが、依正不二はその第6にあたる。正報とは生を営む主体である衆生をいい、依報とは衆生が生を営むための依り所となる環境・国土をいう。
依報・正報の「報」とは、「報い」の意。善悪さまざまな行為(業)という因によって、苦楽を生み出す影響力が生命に果として刻まれ、それがやがてきっかけを得て現実に報いとなって現れる。
過去の行為の果報を現在に受けている主体であるので、衆生を正報という。
それぞれの主体が生を営む環境・国土は、それぞれの衆生がその報いを受けるためのよりどころであるので、環境・国土を依報という。
環境・国土によって衆生の生命が形成され、また衆生の働きによって環境・国土の様相も変化し、この両者の関係は不可分である。
それゆえ日蓮仏法では、仏法を信じ実践する人自身が主体者となって、智慧と慈悲の行動で依正の変化の連続を正しく方向づけ、皆が幸福で平和な社会を築くことを教えている。
教学用語検索,SOKAnet,https://k-dic.sokanet.jp/依正不二(えしょうふに)/,(引用 2019-1-27)