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【宗教 家族 創価 結婚】宗教と私どっちが大事? あなたが宗教を続けるなら私はここで自殺してやる!

家族をとるか?宗教をとるか?価値観は人それぞれで、とても難しい問題です。

自身に置き換えて考えると、例えば最愛の家族がある日突然エホバに入信した場合、心のそこから危機感を覚えることでしょう。

宗教は自由です。相手の信じるものを安易に否定してしまうなら、世界中に起こる宗教戦争となんら変わりありません。

そうわかってはいても、何とかしたいと思うのが人情です。

 

次元を小さくしてみます。

タバコひとつとっても友達程度なら、容認して放置できます。

ただ、家族となると、やめさせたくなるもんです。

百害あって一利なし。シンプルに寿命を縮めるツールです。命を冒涜ぼうとくしているツールです。突き詰めると謗法ほうぼうなんじゃないかとすら思えます。

その人の命をどう扱うかはその人自身に権利がある、頭ではわかっていても、やるせない。

なぜこんな気持ちになるのでしょうか?

一体、家族とはなんなのでしょうか?

 

神道の家族信仰とブッダの血筋

戦前から日本国は神道の思想を色濃く引きずっています。神道には家族思想、家族信仰が掲げられていますが、この思想が元で受験戦争時には家族、親族でのエリート意識が顕在化し、一流大学に名を連ねる親族の中でひとりでも三流大学などにいってしまうと、所謂いわゆるおちこぼれの扱いを受けることになります。

ちびまるこちゃん、サザエさん、を日曜日のゴールデンにもってくるのも、家族信仰の典型で、私たちは幼いころから家族を常識の中の最重要に近いレベルのものとして洗脳され、育っています。

日本人には現代にいたっていまだに “血統” への信仰心が根付いているのです。島国根性です。

血統による差別をモチーフにした漫画が軒並みヒットするのも、その為です。うちは一族とかゾルディック家とかDの一族とか、面白いですよね?

そんなこだわりへの否定に先陣を切ったのが、やはりブッダでした。

仏教の始祖ブッダは実の子供に『ラーフラ』【悪魔という意味】という不吉な名前をつけ、家族ごと捨て去って出家しているのは有名な話です。

このラーフラは後の成長にあって再会し、ブッダの一弟子となって修行しています。勿論当時の戒律かいりつの元、ラーフラは妻子を持っていません。

つまり、ブッダの血はこんなにも容易く途絶えているのです。

 

生物学上の家族とは

人間は動物です。チンパンジーとは遺伝子が1.23%しか違いがありません。生物学的には子孫を繁栄する為に生きています。親の目的は子を生かすことです。子が立派に成長するまで(子の生存率を上げる為)は親が命をして守ります。

チンパンジーでも離婚・死別・再婚・連れ子の現象は確認できます。人間においても、生物学上では子孫を増やすこと、生存率を上げるべく育てること、守ることが正義であって不倫や再婚も正義なのです。

そもそもなぜ家族が発生したのでしょうか?

家族の起源

2000万年前の中新世、緑豊かな環境に適応し、果実を主食とする類人猿るいじんえん

そんな類人猿の中で、唯一、より乾燥した新しい環境に適応し、果実だけでなく、肉を含む雑食になったのが人類です。

乾燥地では、肉食動物から逃れるために、集団で生活することが必須となり、共に食べ、共に子育てを行う共同社会が誕生しました。

つまり、なぜ共同生活が始まったかと言えば、シンプルで『生きる為』なのです。

生物学においては、集団家族も、生き残る為に存在しており、突き詰めれば個の為なのです。

 

ここから解るように、家族そのものに思想の重きを置いているのは、神道の思想が中心なのであって、ブッダの血が簡単に絶えていることや、ダーウィンの生物学的な見方においては、あくまで“個”が主役なのです。

 

個人で生きていける力があるのであれば、そもそも家族は必要ないもの。

なぜ一緒にいるかと言えば『便利に』『楽に』『効率化する為に』突き詰めては『個』それぞれの生存率を上げる為に、家族を形成しています。

しかしこれは生物学的視点です。

 

人間らしい解答として、なぜ一緒にいるかと言えば、共にいて “楽しいから” がひとつの答えなのではないでしょうか?

生物学的意義としても、人間らしい解答としても、

あくまで個人が幸福になる為の家族。兄弟。夫婦。

 

思想があまりにも合わない人と形式的な家族を形成する(し続ける)ことは、生物学上正義であっても人間らしい視点として幸福と呼ぶには難しいのではないでしょうか?

 

あくまで個が主体

だからこそ、相手の信じるもの、相手の思想を強制することは、はなはだ傲慢ごうまんなことです。

宗教をとるか、家族をとるか、よく聞く話ですが、上記のように家族とは、あくまで個人が幸福になる為のツールにすぎません。

 

対して宗教はというと、オウム真理教のように組織、団体での視点で見られがちですが、まったく違います。

宗教とは『信じるもの』を指します。

Xエックスジャパンによって自殺していったファン、これはつまりXジャパンを信仰しているのです。

アーティストのライブ会場、そこに集うファン、これはつまりそれをたてまつる宗教です。

宗教の集会同様、ライブ会場を『気持ち悪い』と感じたことはありませんか?(←大概は好きで参戦してるからあまりないことでしょうが…)

水素水すいそすいサーバーを信仰する人もいます。サプリメントを信仰する人もいます。

 

明らかなことは『信じる対象』をあやま不幸しかないということです。

水道水を疑い始めれば、水道水がストレスになり、後には精神病をわずらうでしょう。

宗教とは『信』であり、人間の根幹の部分なのです。

 

宗教と家族、これらは、

そもそも根底として同じ土俵に並べて、対比すべきものですらないことがご理解頂けたでしょうか?

 

『あなたが宗教を続けるなら、私はここで自殺してやる!』

ここまで読んで頂いた方にはどれほどこのセリフが我儘わがままなことを言っているか、解るのではないでしょうか?

自分のエゴの通りにしてもらえないならば、死んでやる。

命を天秤にかけて相手をおどしているのです。卑怯ひきょうな言い方であり、かつ相手を無理強いし、自由を奪おうとしています。

相手は自分自身の一部ではありません家族という単位血という範囲で見ているあたり、こだわっているのは、自分の “プライド” なのです。

 

とはいえ、完全に自由にしてあげるというのも、両極端すぎるのではないか?

たしかにその通りです。

無関心を貫くのは両極端です。

タバコはやめさせたいし、現実に焦点を置かない思想(死後に焦点を置く天国や地獄観、最終戦争や終末思想)は、相手が苦しいだけなので、やっぱりやめさせたい。

現実に焦点をおいて『心も体も物質も』豊かになっていきたくて、生きてるはずです。本然的には。

 

だからこそ、間違った思想に傾倒けいとうしていて、なんとかしてあげたい、と思うなら自分の姿でみせてあげるしかないのではないでしょうか?

あなたが宗教を続けるなら、私はここで自殺してやる!

なんておおよそ相手が変わらないであろうことは、言っている本人が一番知っているはずです。

エルサレムでキリストやイスラム相手に自殺してやる!と言ったって、相手は変わらないどころか、そもそも発言の前に殺されているかもしれません。

 

命がけで相手を変えたいなら、まず命がけで自分が幸福になる現実を勝ち取ることです。

イキイキした姿、イキイキした表情、豊かな人間関係、豊かな生活。

それらを手に入れる為に努力して自分が変わっていく様子

薄皮をはぐように、こういった姿を見せ続けることが、結果的に相手が自分の生き方を見つめなおすことになると信じて、関わり続けること。

これが本当の慈悲じひなのではないでしょうか?

 

家族に迎合げいごうして宗教を捨てるとか、宗教に意固地になって家族を見限るとか、両極端が答えではありません

自己犠牲に徹して相手に合わせきるとか、自我を貫いて相手を無始するとか、両極端が答えではありません

家族信仰に傾倒するとか、完全個人主義に傾倒するとか、両極端が答えではありません

現実をしっかり見て、バランスを意識して智慧を絞って舵をとる

 

そうやって切磋琢磨、試行錯誤していく中で、自分の中の “ふり幅とバランス” 、それぞれの家族独自の “正解” が作りあげられていくのではないでしょうか?

教育の根本は自身の成長。なんとかしたい誰かがいるなら、圧倒的な成長幸福を見せつけてあげてみはどうでしょうか?!