創価班をやめたいのですか?
本記事では創価班をやって得ることのできる境涯を解説します。
境涯を学び、境涯を底上げする大学校
創価班は得るものも多く、失うものも多いです。
調度、甲子園を目指す、球児のようなイメージです。
創価班大学校(男子部大学校)というものがあります。正規の創価班員になる為の訓練期間があり、その訓練期間のことを創価班大学校(男子部大学校)といいます。
一年間、大学校生として、訓練を受けます。
訓練の内容は、小説人間革命全12巻の読了、そして折伏の成就(本尊流布の弘教一世帯達成)です。
人間革命の読破からは境涯とは何か?人間の幸福とは何か?という本質を読み取る訓練があり、境涯というものをより具体的につかめるようになることで、自身の人生をより明確にマネジメントすること(使命感)へ繋げていきます。
折伏の訓練からは境涯の底上げという戦果を得ます。一年間間断なく弘教の訓練を行うことにより、勇気、他人を真剣に想う心、最後まで諦めない姿勢、など数多くの境涯を獲得していきます。
失うものとしては、大量に時間を消費します。そして友人(多くは悪知識)も失うことでしょう。
時間革命との闘い
上記のように大学校生となると、折伏の決着に向けて最低でも一日一時間の唱題が開始されます。ひたすらに相手の幸福を祈り、考えます。相手は何に悩んでいるのか?その苦しみを取り去る為にネックとなっている命の元凶は何か?どうすればその元凶に本人が気付き、自覚し、決意し、挑戦できるのか?変えていけるのか?
結局のところ、一日一時間の唱題では飽き足らず、相手への本気度が増すほどに唱題の量は増えていきます。
創価班大学校単独の会合も地域によりけりですが、週一回はあるので、その他の会合(本幹、座談会、部活など)も含めると、会合参加だけで忙しくなり、小説人間革命も会合の都度、読み合わせや論評、ディスカッションなどあり、最後には思いあらば唱題に費やします。
時間との壮絶な闘いは不可避です。
そしてこのような状況になって境涯を破るチャンスが訪れます。今までの人生において無駄だったものは何か?価値の低いものは何か?その件に関して改めて真剣に向き合うようになるのです。
ここから個人の真の生産性が育まれていきます。
これを起点に、幹部の生命の急所をつく指導なども入り、人によっては依存症を克服し無駄な時間を極端にカットできた仲間もいます。
自分の持ちうる全ての『時間』の手駒をどう入れ替え、どう組み立て、どう未来の成りたい自分へ繋げていくのか?
一年間考え抜き、試行錯誤しながら現実の時間と格闘を続けて、確立されていく境涯は、まるで別人の自身を一年後に生み出すのです。
友人を失う恐怖との闘い
当然、友人関係も錬磨されていきます。そもそもの今までの自身の人間関係はどうだったのか?打算や利害で形成されていたのか?ただありふれた時間を目的もなく欲に流されつるむだけの間柄だったのか?仮に牢屋に入っても切れない友情を形成しているのか?
筆者は大学校を終えて数年間程度までの間、当時勤務していた会社の社長なども含めて結果100人以上に折伏するも、本尊流布はひとつもできませんでした。
そしてフタを開ければ多くの友人知人を失っていました。
この間、自分自身への問いかけ(相手の為ではなくその実自分の成果の為の折伏になっているのではないか?etc.)も数々あり、友人個々の命の本質もよく考察するようになっていきます。結局のところ彼が自分と繋がる理由はなんなのか?結局のところ彼女が自分と関わるのは何故なのか?
そうやっていくうち、本当に自分にとって大切な友人や、損得なく自分を大切にしてくれる友人などが、判明してくるのです。
結局筆者の正体は、中身のない空虚な人間でした。誰一人とも信頼を結ぶことができないその正体がバレるのが嫌で、早く本尊流布を決めたくてまったく相手を鑑みない折伏をやってしまっている期間もあり、その過去は、本当に申し訳なかったと懺悔しています。
しかし、そんな現実をありありと認知し、その真実を自らに突き付けることは、筆者にとっては全ての衣服をはぎ取るような、とても重要な出来事だったのです。
友人そのものを失うのが怖いのではなく、自身にとっての虚栄の友人をはぎ取られ自身の正体がバレてしまうことを最も恐れていたのです。
自由自在な日程を組める境涯
夏。研修道場にて総総千葉の創価班会が行われました。筆者は仕事のスケジュール上、参加は無理だったので、一カ月以上前から無理です、と伝え欠席届を提出しようとしていました。
良い表現なら諦めない境涯・怖い表現なら執念の境涯
当時の部長や大学校団長、県委員長など、皆そろって『最後まで戦い抜こう』と許してくれません。
どういうことか?
最後まで、とは総総千葉の創価班会当日まで、参加を諦めないということです。
加えて、折伏の決着も諦めないということです。
筆者はその当時の職場において、事情を説明し、休みを申請する勇気がなく、学会側には無理と言っては、その件を放置していました。
申請する勇気は出ずとも、祈りだけは捨てずに参加を祈り続けていました。
部長や団長は本当に最後の最後まで欠席届を受け取ることはせず、申し訳なくも筆者も最後の最後まで休みを申請することはできませんでした。
そして迎えた創価班会前日、職場(現場)でアクシデントがあったらしく、仕事そのものがなくなり(当時は保線作業員でした)、翌日も急遽休みとなります。
結果参加できることとなりました。
そこまでの渦中、誰かが許せば、筆者は祈るのを放棄していたことでしょう。周囲も諦めて、祈るのを放棄すれば、参加の現実はなかったであろうと感じています。
この頃から結果に執着する境涯を、本当に少しづつですが、獲得し始めての今に至ります。
継続(執着)し続けること、人生で最も重要な部類のひとつの真理である継続の力・粘り強さを組織から肌で教わったのは事実です。
本担が不自由な苦しみと共に、自由自在な境涯を開く
本担(総本部創価班)とは、信濃町の創価学会本部を担当する創価班を言います。
各地の地方の創価班員からより力のある人材が信濃町の警護に着任します。
この本担は年間に3連休を4回ほど勝ち取らねばならず、学会でもある程度の役職と社会でもある程度の立場(フリーターなどでは不可)でないと選ばれないポジションです(過疎エリアでは人材不足の為、その限りではありません)。
この休みを勝ち取るという訓練。社会で責任の重い立場であればあるほど、むしろ難しい性質のものです。
着任予定は年間で組まれているので、発表の時点で仕事とのブッキングが判明して顔面蒼白になる班員だっています。
結局最後の最後まで祈りきり、交渉しきるしかないのですが、この交渉などの経験が、結果として自由な境涯を勝ち取る因となっていきます。
祈りと同時に、シフトの管理者側へ昇りつめていったり、役員側に昇りつめて会議や会社イベントそのものの日程を左右する立場になったり、あるいは天性の交渉術を開眼してサービス業で元旦の休みを勝ち取ってみたり。
そもそも論で、会社に束縛されない人生を開く為に、事業を始め、結果個人会館まで建てて、好きな時に働ける境涯を開くに至る人間さえいます。
自分には無理だ、と会社に支配される境涯を抜けることに永遠に挑戦しなければ、一生何かに支配される人生です。
全ての物事は強いか、弱いか、ただその一点だけで180度結果が変わってしまいます。
自由自在にスケジュールを組める境涯を目指したものだけが、そして諦めなかったものだけが、本担を勝ち取り、壮年部に移行後は悠々の人生を開いていくのです。
本担で錬磨される、ありとあらゆる責任感と力は、結果的にあらゆる(弱さから来る)縛りから自身を解放させます。
そこで得た大いなる功徳は、鍛え上げた六根清浄の生命、なかんずく人間としての底知れぬ強さに他ならないのです。
絶対無事故の境涯
無事故の本質
創価班で得てきたものの中で、筆者がとても実感しているものがあります。
それが、自身の弱さを受け入れることです。
実際に着任していくと、様々なミスが出ます。
- 勤行セットを持って行くのを忘れた
- 携帯を持って行くのを忘れた
そもそも持って来いとは言われていません。
そして逆に持って来いと言われていた物は全て持ってきていたことから、当時の筆者は全てをきちんと細部まで連絡していない部長やその他役員のせいにして、一人で怒りを溜め込んでいました。
自身は一切悪くない、そう信じていました。
自分ではコントロール不可能な事柄
研修着任(通常人数の体制に+αで加わって実際に着任の雰囲気を体験する着任)も終わり、いよいよ正規の班員として数に加えれられた初着任。
そのときに記したメモの反省に以下が記入されていました。
- ハンカチ、チリガミを忘れた
- 貧血で一階で休んでいる方がいた
- 正座台を出しすぎた
- 声かけが甘い
- 何て声をかければよいかわからない
- 挨拶の後の目線に困る
- 笑顔が甘い
初着任は館内任務でした。
ハンカチ、チリガミは、言われていなかったので持ってきていません。
貧血はしょうがない。
正座台というのは正座用の股間に挟む痺れ予防の小さなイスのことで、無駄に出しすぎたせいで、子どものおもちゃに半分なってしまっていました。
声かけが甘い、というのは、会館は左右にパイプいすが設置されており、中央は畳です。高齢者が多いので、左右のパイプいすから埋まり、中央や最前列はガラ空きになってしまうので、特に放映が始まる前の早くに来た来館者には、
『右前方が空いておりますので、よろしければ前へ詰めてお座りください』など声かけして最前列から埋めていかないと、後々、最前列ばかりスカスカなのに、放映後半に来た人が人だかりで入れない、または入りづらい、というケツばかりが膨らんだ状態を作ってしまいます。
ハンカチチリガミや笑顔、イス出しなんかは、自身が悪いと素直に反省しましたが、貧血で一階で休んでいる方の存在や、或いはどんなに声かけしてもこっちの理想通りに座ってくれるかどうかなんてのは、自分の問題とは無関係、そう感じていました。
しかし創価班役員会(本幹の後に今回の着任の反省をする会)で、
『体調不良者』を出してしまいました。申し訳ありません。という内容の言葉を耳にします。
その後の着任においても、
駐車券の無記入を2枚もらってしまいました。駐車券なしを2台停めさせてしまいました。申し訳ありません。や、
会館周辺の送迎(筆者のエリアでは近隣との協定から会館周囲での乗降が禁止された上で会館が建設されています。)を発生させてしまいました。申し訳ありません。や、
その他にも無数に、下足の間違いを発生させてしまい、や、忘れ物を発生させてしまい、など反省している様を見て、内容云々ではないことに気付きます。
全て自身の責任と受け取れるかどうか
過去に、幕張メッセでの青年大会が予定されていました。
しかし、創価班の意識の低さを感じた池田先生は、
キミたちは無事故を解っていない。4万人で、1人でも倒れたら、事故なのである。
と、青年大会を中止するに至ります。
真剣な祈り
あらゆる想定の中で、何が起こっても自己責任とする祈り、これが無事故の本質です。
あらゆる想定を祈りの中で想定しきります。
そして、
梵天、帝釈、日天、月天、あらゆる諸天善神よ入り給え、世界全土の、日本全土の、あらゆる人、車、埃一塵に至るまで諸天善神よ入り給え、と真剣に祈ります。
創価班の着任を通して学ぶこと、それは、自身の内側に潜むあらゆる無責任を打ち破り、全てに責任を持つ境涯、つまるところ一切無事故の境涯に入っていけることを命で実感すること。なのであると。
無責任というのは、自身の弱さが本質です。
何かのせいにして、自身は悪くないと逃げるのか、
或いは全ての事象を自身のせいとして、認める覚悟、受け入れる腹が決まるのかどうか。
自身の弱さを受け入れ、無責任から全てに責任を持つ境涯に変化するとき、全ての祈りが支配できます。
祈りとは、全てを仏界で包み込むこと
祈りで全てを仏界とねじ伏せる、これが無事故の極意です。
事故に逢うというのは、一瞬の間です。
その車とそのバイクが10秒ズレるだけで衝突はしません。
この10秒をズラさせるのが、祈りです。
事故に逢うというのは、一瞬の判断ミスです。
その瞬間、止まるべきか、ハンドルを切るべきか、むしろ加速するべきか、周囲のドライバーの考えを正しく把握できるか、
この一瞬の判断を仏界にするのが、祈りです。
普段の祈りから真剣に、本当に真剣に、
無差別殺人を起こすような人間は自身に近づけない、或いは、自身に近づくと諸天が入って殺人ができない境涯になる、など祈っているならば、必ず事件には巻き込まれません。
あらゆるものの運行に介入して支配するのが、祈りです。
支配という表現がひっかかるかもしれません。これは、相手を洗脳して自由に操るということではないです。
すれ違う距離間や、すれ違うタイミング、その瞬間の気分を、ほんのちょっとだけズラすだけで、お互いの事故が回避されるのです。
自分も相手も救っています。
無事故の祈りとは、菩薩行でもあり、それ自体に功徳があるのです。
祈りで全てを仏界とねじ伏せ、達成できないことの全てに責任を持つ腹を決める。
自己責任だからこそ、真剣に祈る。本気で祈る。
少しでも運のせいだと思っている限りは、一生無事故の境涯は獲得できないことでしょう。
運を究めていくことが、人生を究めていくことであると、気づいていく為の無事故の祈りなのです。
夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり、ことに法華経の行者をば諸天善神・守護すべきよし属累品にして誓状をたて給い・一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見へて守護し給うは日月天なり争か信をとらざるべき
四条金吾殿御返事 1,192P
日蓮大聖人御書全集全文検索,SOKAnet,https://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=1192,(引用 2019-9-2)
蔵の財、身の財も付随して開いていく
全てに責任を持てる境涯を確立すれば、自分の人生にも責任を持てるようになります、そして周囲の人を幸せにしていくことにも責任が持てるようになります。
それは、結果として、時間革命をもたらし、命の弱さを克服し、日程自在な境涯へ自身を導き、一生涯事故事件に逢わない金剛不壊の境涯を開きます。
その過程において、責任感があるからこそ、絶対に風邪もひかない智慧と行動も得て、身体も強く鍛え、お金をがっちり稼いで自身も周囲も守れる状態を形成するようになっていきます。
無責任ではただ煩悩に支配されて生きていくだけです。
責任感があるからこそ、全てが重要で獲得していくべきものであることが、心底理解できるのです。
いい加減は悪
以下は創価班指導集・師弟の大城より
戸田先生は本当に厳しかった。徹底して私を鍛錬してくださった。
師匠に対して、いい加減なことは言えない。だからこそ、私は真剣に勉強した。
さまざまな報告も、正確に、慎重に行わねばならない。嘘や間違いを言えば、そこから狂いが生じてしまう。
2005年2月3日第二総東京最高協議会
対向車のドライバーは何を考えているだろうか?この距離感で無理やり曲がってくるだろうか?
後続車の車間はどれくらいあるだろうか?煽っているのか?こちらが急ブレーキをして後ろも急ブレーキは間に合うだろうか?
周囲の人間が何を考えていて、どういう行動に出てくるか?こういったことをいい加減に考えて運転しては、事故を起こして痛い目に遭うのは自身です。
所詮車といっても、人と人のコミュニケーションが基盤となっています。周囲に気を向けて、周囲を尊重するからこそ、周囲の呼吸が読めて、結果いい加減な運転をせず、無事故を勝ち取れるのではないでしょうか?
本当に変わりたいと願うなら、腹を決めて本担(総本部創価班)を目指すべきと、断言します。