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仕事を頑張っても認めてもらえない/価値観多様化と生きづらい“否定社会”をどう生きるのか?

仕事を頑張っても認めてもらえないという部下の立場と、部下を注意しても手応えがないという上司の立場。

人は果たして解り合うことができるのか?

価値観の多様化した世の中でどう生きていけばよいのか?

個性を活かしつつ住みよい世界を構築する為に知っておきたい現代の“否定社会”の本質に迫っていきます。

なぜ頑張っても認めてもらえないのか

もうこれ以上無理!というくらい仕事をします。しかしやってもやっても新しい“穴”を探され、指摘されてしまう……。

いたちごっこです。一向に許してもらえない理由……、もしかしたら、あなたが『許してくれない上司を許さない』から、かもしれません。

確証バイアス、をご存知でしょうか?

確証バイアスとは、仮説や信念を論証する為に、それを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を集めようとしない傾向性のことを言います。

天皇を神格化する為に、美化する情報のみをメディアで流し、反証情報は流さない夕方のニュースのようなものを指します。

粗探し上司に対して自分を正当化する為に『許してくれなかった情報』ばかりを自分の記憶に集積し、上司のいいところは一切無視する傾向性。

確証バイアスで自分の中でどんどん嫌なやつになっていく上司…、自然と対応にも嫌悪している自分が漏れてしまってはいませんか?

仕事に対する価値観は様々です。スピードへのこだわり、日々のブレのなさへのこだわり、相手への配慮のなさを許さないこだわり、ただ怒られたくないだけのこだわり、頑張らないことへのこだわり…etc.

数限りないこだわりをそれぞれに持ちながら生きています。

自分がスピードへのこだわりを持って全力でやっていたとしても、精度の低さが目立てば精度にこだわりをもった人は否定してきます。

精度にこだわりを持った人にとっては、自分の信念を否定されたように感じてしまうのです。

スピード重視の人がどんなにスピードにこだわって全力で、本当に全力でやったとしても認められる日は来ません。

頑張っても認められない理由は、価値観が違うからなのです。

また、現代と昔では価値観の種類が圧倒的に違います。なぜこのような現象に陥るのでしょうか?

なぜ価値観が多様化したのか

戦後にも残っていた集団主義思想、その根底から具現化されていた終身雇用、年功賃金、企業別組合……etc.

ひと昔前の日本は、制度も皆同じシステム、社会常識も足並みをそろえ、思想も統一的でした。

皆が見るメディアも限られており、ニッチな人間はあまりいません。

現代社会は『性的マイノリティー』と声高らかに上げているように、少数のコミュニティが存在を主張する時代です。

背景としては、欧米の個人主義文化の流入、経済発展に伴う社会の効率化と発生する余暇、情報と物質の過多、その選択肢を自由に選び取れる社会構造が構築されていったこと、などがあげられます。

現代の日本は主夫や女医、生活保護やyoutuberなど様々な選択ができ、様々な思想を持つことができます。

ネットの普及でメディアも世界に繋がり、スマホひとつでひとりひとりが自分のメディアを持てるのです。

このような環境的背景を持つと、似たような価値観を持つことの方が難しく、本当に数限りないニッチな価値観を持つ若者が増えてきた時代なのです。

なぜ現代人は自己肯定感が低いのか

上記のように個人主義文化の流入がなされる前の日本は、集団主義思想でした。

類似性の法則をご存知でしょうか?

類似性の法則とは、食べ物、趣味、部活、職種、など経験や恰好が被る人間、自分と似ている人間に好意を抱くことをいいます。

集団主義時代の日本においては、思想が根幹的に近しい性質を持っていたことから、大きなブレがあまりありませんでした。

みんながみんな同じような思想の世の中なので、類似性の法則の作用も強く、多くの人は高度経済成長の日本を共に支え、バブル経済の一体感を味わえる、つまり自己肯定感の後押しの強い、自信をもちやすい時代だったと、いうことなのです。

価値観の多様化は類似性の法則の作用を生み出しにくい環境をつくり、また個人主義はつまりオリジナリティーであり

このオリジナリティーは≒他人とは違う自分、ということです。

他人とは違う、ということは他人を否定している側面を孕んでいます。

したがって、個性を認知する社会であればあるほど、互いを否定する社会という一側面があるのです。

個性化≒否定社会≒自己肯定感の低下

個性を主張しているのに、自己肯定感は低下してしまう。

こういった矛盾した図式がたってしまうのです。

若者が貧弱に見える理由

価値観の多様化によって上記のように否定社会が蔓延しています。

結果社会が抱える総批判数が相対的に増えました。様々な価値観が様々な価値観を否定しています。

総批判数が増えたことによって自己肯定感がデフォルトで低くなった現代。

2020年にはうつ病が世界最大の病となる予測なども出ているほどです。

日本だけでなく、世界中で自己肯定感が低くなったことが、うつの後押しの一因なのではないでしょうか?

自己肯定感のデフォルトが低い現代の若者は、もうこれ以上傷つかない為に極端に『否定』を避けるようになります。

根性がない、仕事が長続きしない、我慢ができない……etc.

便利な時代環境故にストレスに弱くなったなど様々言われますが、

現代の若者は、貧弱になったのではなく、否定社会が生んだ、自己肯定感の低さがもたらす自信のなさ、覇気のなさがただ貧弱に見えるだけなのではないか?と感じるのです。

そして『否定』を極端に嫌悪する若者は、コミュニケーションを拒絶するようになっていきます。

自己肯定感を取り戻したいから、承認欲求はある。一方で自己肯定感を失いたくはないし、だけど価値観は多様すぎて否定される可能性が高すぎるのでコミュニケーションは拒絶する。

現代の若者はそんなジレンマで揺れています。

ショーペンハウエルのいうヤマアラシのジレンマと同じことです。詳しくは『ショーペンハウエル』『ヤマアラシのジレンマ』で検索してみてください。

解り合うという発想自体がナンセンス

解り合う。この言葉は結局のところ、相手に強要をしています。

『合う』という時点で、自分の思想を認めさせているのです。

上司の価値観を一部こちら側に変更させて認めさせるということで、これは甚だ傲慢なことです。

思想は自由であり、上司の価値観は上司の価値観で尊重すべきです。

本質的に解り合うということは不可能であり、現実としては、運よく上司が境涯を上げて、否定しなくなるか、あるいは自分の側が逃げる(関わることを避ける、仕事を辞める)か、上司の価値観を否定せずこちらがその価値観で仕事をするか、しかないのではないでしょうか?

こちら側が境涯を上げて、“相手は感情をコントロールできずヒステリックに否定する手段しか取れない人間なんだ“、と許してあげて、相手を否定せず認めてあげれば解決ですが……、

そう簡単にいかないのが人間ですよね。

否定にも境涯がある

批判、否定、といってもその根底にある『想い』には様々な境涯があります。

自分の過去受けた『くやしさ』を晴らすべく、あたるだけの批判、否定。

承認欲求の爆発による他者への批判、否定。

優越欲求を満たす為の批判、否定。

より良い技術を習得してもらう為の批判、否定。

成長してもらう為の批判、否定。

上記のように否定にも根底に潜む境涯が多様にあるのです。

怒られる人ほど成長するという嘘

怒るも否定も上記同様で、その中身に境涯があり、相手の為なのか、否か、で天地雲泥の差があります。

指導する側の人が読まれていることもあると思いますので、知ってもらいたいのは、『相手を想わない感情的な否定』で人は成長しない

ということです。

怒られる側(否定される側)は100人いれば、99人は、否定されたことに対する悔しさの感情を持ちます。

ただ価値観が合わないだけで、頑張っていると思って働いている人であればあるほど、この上司は自分の尽力をまったく理解していないし、しようともしていない、と怒りや悔しさだけが残るのです。

そこを、『相手の成長を想う否定』にしてもらうだけで、受け取り方は変わってきます。

相手によりよくなってもらう為に、指摘して提案する、ということです。

一通りキレまくったあとに、『言わなきゃわからない』と言っている上司は、自身を正当化する為に後付けしているだけです。

怒られる人ほど成長する、というのは幻想です。

私が今まで見てきた社会は、怒られる人ほど、どんどんダメになっていった、です。

否定され、自己肯定感を失い、うつになり、辞めていく……。

『相手を想わない感情的な否定』でも成長できる人は、100人中1人、2人程度の

“あの人は感情をコントロールできずヒステリックな手段しか取れない人間なんだ“と理解してかつ、その一方的な感情と価値観を受け入れて許すことのできる人間のみなのです。

自己否定から始まる成長は選択すべきでない

自己肯定感が強いと成長が止まるからよくないとか、成長は自己否定から始まるとか、よく聞きますね。

しかし、自己肯定感はあっても成長は止まらないし、自己否定から始まる成長は、幸福とは言えません。

やはりこの根底には境涯が関係してくるのです。

自己肯定感で止まる成長とは、優越感であり、つまり傲慢です。自己否定からの成長は、主に劣等感です。

これらは『人と比較する境涯』を基盤においています。この境涯を元に生きると、一生涯比べることに支配されてしまいます。

向かうべき境涯は、人の為、なのです。

劣等感でなく、人の為に成長する。人との相対でない絶対値としての自己肯定感。

このように人の為、という境涯を基盤に置けば、行き詰まりはなく、増幅した自己肯定感もマイナスの要素を失うのです。

 

境涯を高く保てる人間が世の中のバランスをとっている

腸内には善玉菌、日和見菌ひよりみきん、悪玉菌の三種類が存在します。

日和見菌は中間層です。善玉菌が多いと自身は善玉菌の作用に変化し、悪玉菌が多いと自身は悪玉の作用に変化します。

人間社会も同様です。否定社会が蔓延すれば、日和見層の人間も活発に否定を開始します。

社会を支えるには、善玉菌が強くあらねばならないし、日和見菌の多くを善玉の作用へと影響させていかなければなりません。

結局、境涯を高く保てる側の人間が、『否定をやめて』、相手を許し、相手の価値観の存在を認め、合わせていく、包み込んでいく、わかった人間が『大人になる』しかないのです。

わかっていない人間というのは、本当にわかっていないのです。

自己肯定感の欠如は承認欲求を生み、承認欲求の暴走は他者への否定を生む、他者への否定は更なる『悔しさ』自己肯定感の低下を生み、生きづらい社会の負のスパイラルは加速していく……。

否定の連鎖を止めなければなりません。

否定はダメだといっても、それも時と場合によります。相手が明らかに不幸になる場面では、全力で否定してあげなければなりません。

人を殺す思想、諦めて腐っていく精神、こういった考えは不幸しか生まないので否定しましょう。

いづれにせよ、基本ベースは否定しない、否定するにしても賢く智慧を絞って否定することが肝心なのではないでしょうか?

まとめ

・頑張っても認めてもらえないのは価値観が違うから
・価値観の多様化は個性のアイデンティティを生んだ
・個性化が個人の否定社会を生み自己肯定感の欠落を生んだ
・自己肯定感の低さが『否定』を極端に嫌悪する若者を生み、コミュニケーションを拒絶し始める
・解り『合う』という発想は傲慢、価値観は自由であるべき
・否定の中身にも境涯がある
・否定される人が100人いれば、99人は感情が先立ち成長できない
・人と比較する境涯を捨てて、人の為の境涯に立てば行き詰まりがない

いかがでしたでしょうか?

現代は自由と個人の確立を謳歌できる素晴らしい時代です。ただ、その反面とても生きづらい殺伐とした時代になりました。

電車で泣いている子どもを冷たい目で見ている大人は、つまり『否定』の眼差しをもっているのです。

子どもがうるさいと感じ、躾云々しつけうんぬんと嫌悪する価値観そのものは、その人の個性なのであってしかるべきですが、その現状に対して『否定』する冷たい眼差しを向けることは『生きづらい社会』を作ってしまいます。

否定の連鎖を止めなければなりません。

この記事を読んで少しでも『否定社会』を変えていきたいと感じられた方は、この記事を広めていってもらいたいですし、振る舞いにも少しだけでいいので実践を加えてほしい、そう、切に願っております。