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役職を断ると罰はあるのか?

役職を断りたい。とかく部長は断りたい。部長ともなれば自分の知る常識では創価班や牙城会の班長や本担がセットでついてくる。全国的にはよくわからないが、自分の知る組織ではこれがたいていの“お決まり”です。

 

ラインの役職では部長以上は必ず部長会が発生し、人材グループでも班長部長会がある。着任は班で欠員が出る場合全て埋めるのはたいてい班長であり、本担ともなれば年に3連休を4回は取る必要がある。勿論全ての会合を消化するのは不可能でしょう。その環境でできる限りを挑戦しきればいい。ただ、時間がなくなるのは明白で、それが耐えられないのです。

 

自分が人生に最も求めているものを永らく考えていた。叶えるべき夢や、使命とは別のシンプルに求めているもの。

30を過ぎてわかったが“余裕”だった。時間の余裕。経済の余裕。人間関係の余裕。

贅沢かもしれないが、余裕を心の底から求めていた。

 

母の役職感はシンプルで

“学会の役職は戸田の命よりも大事だ” である。母は過去に引っ越していて、それを本人は役職から逃げたと解釈している。

母は大病を患っているが、その病を役職から逃げた罰と認識していて、譲らない。

青二才の私は逃げたことと大病との明確な因果関係がわからない為にその話を信じていない。

シンプルに大病の因は遥か過去世からの謗法であり、積み上げたあらゆる要素が複合的に織りなって結果をもたらしたものであると思っている。

しかし幼い頃からの洗脳は怖いもので、理論ではそう思うも、心は罰があるのではないか?と感じてしまっている自分がいた。

 

本部相談室に行ってみた。

端的に役職を断ることによって罰があるのかを質問した。

御書には(罰は)色々出てくるが、罰はないと思う。という回答だった。みそだ。“ないと思う”との回答。

相談員の方は、そもそも罰論は好きじゃない、その先がないので。と続けた。

罰と思うようなことに対して罰と思うかどうかであってその主観によって罰にもなり、またならなくもある。

つまり厳然と罰なるものがあるのではなくあくまで個人の主観によるものと思っている。と。

さらに、多忙な仕事で体調を壊していたり、家族の介護で生活が縛られていたり、難関試験など、外的な要因でやむをえずなら仕方なく、内的な、単に心が引いているだけなら、よく題目をあげたほうがいい。と答えた。

いずれにせよ罰はないと思う。と重ねて。

 

つまり内的な退きがあるわけでなく、明確な、使命感のある何かがあればそちらを優先してもいいし、基本的に選択肢は自由である。ただ、決めるにはよく題目をあげよ。ということだった。

考えればわかることだろう。芸術部やスポーツ部、ドクター部など、普通に考えれば仕事のスケジュール優先だろう。その中でもできる内容のものとして話が来るのであろう。その人しかできない使命を等身大で果たせばいいのだ。

 

ここまで考えてようやくすっきりした。

勿論余裕のある暮らしをしたいという我儘もあるが、それとは別に自分の時間をかけるべき使命もハッキリと見えている。自分のためにもなり人のためにもなり広宣流布にもなる道が。なのでこのままで行こう。副地区リーダーとして。

 

ちなみに応対してくれた方は副会長ではない、とのことだった。ただ、県全土を管轄していた青年部時代もあるとのことだったので、当然だが方面幹部の方なのだろう。私の答えのない質問に境涯そのもので答えて頂き感謝にたえない。

 

この方に色々と質問もしてみた。

役職を断ったことはあるか?

⇒ 一度もない。

 

役職を断ろうと思ったことはあるか?

⇒ 一度もない。

 

それはなぜ?

⇒ 一番最初に信心のいろはを教えてくれた人から『役職は断ってはいけない』と言われていたから。

その人のようになりたくて信心をしていた。だから言われた通りに信心していた。

 

このときに思った。結局周りに信心している“人”で決まるんだな。と。

とある疑い深いキリスト教信者がなぜ信仰の道にハマったかの体験談を昔読んだが、一番最初に聖書を説明してくれた人の人格があまりにも偉大だったから、という回答だった。何を聞いても懇切丁寧に腹を立てずに相手しきってくれた。とのこと。

やはり偉大な人格が、愛が、人に信力を与えるのだろう。そう確信して

この相談員の人はその意味で本当に運命的に環境に恵まれたのだろうな、と。

 

もうひとつ質問した。

役職を受けて幸福に思うことは?

⇒守備範囲が拡がること。様々な問題や出会いが増えていくこと。対応するごとに境涯が拡がり、またその切磋琢磨が今生人界の思い出になってきたこと。

境涯が拡がり、悩みが悩みじゃなくなることは、実際に境涯が拡がった人でないとわからないだろう。問題や出会いを避けて怯えてめんどくさがると、苦手な人には永遠に苦しまされるという地獄からは抜け出せない。この切磋琢磨が唯一死後にもっていける宝であり、鍛えた心の正しさ、強さ、柔軟さ、知恵、愛、つまり境涯こそが最上の幸福と信じ切れるからこその解答なのだ。

 

どのような検索でこのページにやってきたのかはわかりませんが、役職を切り捨てるほどの守るべく使命がないのであれば、あるいはどうしても主観として罪悪感や罰の感覚が出てきてしまうのであれば、受けて今生人界の思い出と大境涯こそ幸福であると信力をだしてもらいたい。そう思っているのです。

 

おおいに題目をあげて考え抜いて頂きたいのです。


カテゴリ【学会活動】の記事一覧

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謗法(ほうぼう)

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謗法の意味、以下引用。

誹謗正法[ひぼうしょうほう]の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。

これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。

日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。

そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。

 

教学用語検索,SOKAnet,ttps://k-dic.sokanet.jp/謗法(ほうぼう)/,(引用 2019-1-27)